慰霊碑(本郷台公園)

軍事遺物
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本郷村における日露戦争から太平洋戦争までの戦死者212柱を合祀する慰霊碑。昭和30年3月に建立されたが、平成23年4月23日に現在地に移設された。
同時に忠魂碑も移設されており、脇には遺族会が建てた由来説明板がある。
碑高310p、幅132p、厚さ25p。
所在:本郷台公園(横浜市栄区)

(刻字)
碑正面:
「慰霊碑
 建長曇華九十八翁書」
碑裏面:
「戦没者氏名 (212柱)
昭和三十年三月建之 本郷慰霊碑建設委員会」

説明板:
「忠魂碑・慰霊碑の由来
栄区本郷の地は明治二十二年より神奈川県鎌倉郡本郷村として運営されていました。
日清戦争では戦死者はありませんでしたが、日露戦争では六名の戦死者が出ました。 そこで明治三十九年二月に村会の議決によって、当時鎌倉に在住の東郷平八郎大将の揮毫による忠魂碑を村立本郷尋常高等小学校校庭西側の高台に設置しました。
その後、満州事変・日中戦争・太平洋戦争と大戦が続く中で多くの戦死者が出ました。昭和十四年四月本郷村は横浜市に編入され戸塚区の一部となりましたが、戦争と空襲に明け暮れる中で敗戦となり、慰霊を考えることもなく過ごしました。
敗戦の混乱期も一段落した昭和三十年に戦没者と遺族を慰める慰霊碑を建てようとの声によって、旧本郷村の有志が本郷慰霊碑建設委員会を結成し。基金を集め、当時の鎌倉建長寺管長の揮毫を得て旧本郷小学校校地内に建立しました。 しかしその後昭和三十五年に本郷小学校が中野町に移り、旧地は横浜市住宅供給公社によって柏陽団地として分譲され、隣接の山地も造成により住宅地となり、慰霊碑は立地を失い一平米強の地に収容され一般の方の目につかない状態となっていました。
この度遺族会や地域有志の働き、並びに栄区役所はじめ関係各位のご理解を得て、旧本郷小学校校地に隣接した当公園内に移設され、ここに忠魂碑・慰霊碑は安住の地を得るに至りました。
長年にわたる戦没者並びにその遺族等のご苦労をしのび、平和を祈念するシンボルが復活したことに深甚なる感謝を申しあげます。
平成二十三年四月二十三日  本郷地区遺族会」