忠魂(金台寺)

軍事遺物
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日露戦争に従軍し、明治38年3月6日、唐家屯にて戦死された石原金太郎さんの慰霊碑。葬儀の参会者は1100人を数えたという。碑は明治40年7月に建立された。
篆額の伯爵萬里小路通房とは、京都の公家で明治天皇に仕えた方である。館山の北条に住まわれた関係で、地域の発展に貢献されたいわゆる名士であり、揮毫や篆額が数多く残されている。(たてやまフィールドミュージアムによる)
隣接して、同じく日露戦争で戦没された辰野清次郎さんの慰霊碑も建てられている。 碑高270p、幅98p、厚さ20p、台石40p、基壇90p。
所在:金台寺(館山市)


(刻字)
碑正面:
「忠魂(篆額)  故陸軍歩兵伍長石原金太郎君之碑
石原君名金太郎安房郡北條街人□姓石川氏父曰市三郎母川上氏君其第二子也以明治十一年二月八 日生幼而頴異夙入郷黌修學嶄然優於衆三十一年十二月齢達壮丁被召為兵編入近衛歩兵第四聯隊第 八中隊三十二年十二月爲一等卒尋普上等兵賜善行證三十四年十一月期満帰家晝畊夜讀如不顧佗者 焉會明治三十七年日露戰役起也憤慨不能措二月十日以陸軍豫備役應徴乃屬第一軍出征二月廿五日 航到韓國鎮南浦奮加決死隊四月廿二日冒夜寒亂激流偵察鴨緑江之敵状能盡其任廿六日撃九里島之 敵進抵九連城轉戰于大荒勾老君峪八家子家匂金鐘山歪頭山等皆有功三十八年三月六日終斃唐家 屯是日任歩兵伍長叙功七級勲八等授金鵄勲章曁白色桐葉章賜金若于圓赴至闔郷无□□惜五月三十 日具盛儀改葬遺骨于金臺寺之山郡宰以下會者千百人君出継石原氏配古能子擧一男猶幼乃者欲建碣 以紀其事傳其功于後代来需文于予予謂君憤然與起以敵王愾邁往驀進北伐南征有進而無退僚友咸稱 其勇武而比韋虎杜彪云於戯如君昔人所謂死或重於泰山或輕於鴻毛者非邪君生秤猛士死列于祠廟豈 不亦榮乎□銘曰
赳赳之小 蹶起于役 義勇奉公 捐躬弗惜 享壽雖短 名垂竹帛 磨崖樹碑 此表忠魄
 于時明治四十歳龍旅強圉協洽夏七月   貴族院議員正三位勲三等伯爵萬里小路通房題字                               千葉縣立安房中學校教諭齋藤夏之助顕忠撰並書」