長州藩官修墓地

軍事遺物

戊辰戦争で亡くなった官軍、長州藩士7名とその妻1名を埋葬した墓地。
横浜市西区の久保山墓地内にあり、荒廃していたものを昭和56年に西区観光協会と山口県が整備した。
由来は、説明碑文を転載するので参照されたい。

長州藩官修墓地
 慶応三年(一八六七年)におこ なわれた大政奉還によって起った 戊辰戦争(一八六八年)は日本を 混乱の渦に巻き込んだ。
 この戦いにより数多くの戦士が 傷つき斃れたが、当時の日本医学 は銃創を治療する技術が貧弱で、 官軍の負傷者は横浜に送られイギ リス人医師ウイリアム・ウイリス が野毛(後に太田陣屋内に移転) に開設された横浜軍陣病院(後の 東京大学付属病院)で治療した。
 しかし、不幸にも亡くなった者 は明治七年七月に久保山共葬墓地 が定められた時ここに移送された。  この墓は長州藩士のもので墓碑 を見れば奥州白河・棚倉・若松な どの戦いで負傷したことがわかる。
 この官修墓地は以前神奈川県が 管理していたが、ほとんど無縁の ままの状態で荒廃していたため、 この度西区観光協会並びに山口県 においてその整備が行われた。
 昭和五十六年三月 西区観光協会 山口県

<墓碑銘(左から)>
元長州藩田村民輔道明之墓
慶応戌辰之春以整□□□□□ 司令□□于□□鳥羽之役□□ 戰被傷其□□横濱□書未戌□ 旧痍再發遂以□□七月□五□ 日卒于□□年二□

元長州藩松岡梅太郎景之墓
慶応四戌辰五月廿6日 相州小田原之役奮戦負 傷同六月十四日卒于横 濱病院年二十六

元長州藩倉橋十三直方之墓
慶応四戌辰閏四月廿五 日奥州白川之役奮戰負 傷同八月十六日卒于横 濱病院年三十四

元長州藩揚井安右衛門信正之墓
慶応四戌辰六月十四日 奥州棚倉之役奮戦負傷 同七月十四日卒于横濱 病院年三十三

元長州藩伊丹市郎勝法之墓
慶応四戌辰八月廿九日 奥州若松城下之役奮戰 負傷同九月廿四日卒于 横濱病院年二十一

元長州藩溝部千吉義信之墓
慶応四戌辰六月十二日 奥州白川之役奮戰負傷 同九月九日卒于横濱病 院

元長州藩伊藤巳之吉忠一之墓
慶応四戌辰八月廿九日 奥州若松城下之役奮戦 負傷同九月廿三日卒于 横濱病院年二十四

士族山徳信義妻 與稱女之墓
明治十四年六月四日死

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