海軍機雷学校(海軍対潜学校)

海軍施設
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(沿革)
・明治26年11月:海軍水雷術練習所を設立。
・明治40年4月:海軍水雷術練習所を廃して、海軍水雷学校設立。
・昭和16年4月:機雷、爆雷、掃海、水中測的部門を分離し、久里浜に海軍機雷学校新設。
・昭和19年3月:海軍対潜学校に改称。
・昭和20年7月15日:海軍対潜学校廃止、海軍水雷学校の久里浜分校となり終戦。

(概要)
・大正期になって水雷学校では、魚雷部門と機雷部門に分かれて教育が行われてきたが、昭和15年に機雷部門を独立させる方針となり、昭和16年、久里浜に機雷学校を開校した。
・戦局の激化によって、敵潜水艦による被害の増大に伴い、対潜術や水中測的の教育が主務となり、名称も対潜学校に改めた。
・一部埋め立てによる広大な敷地には、庁舎や講堂、道場のほか、大量の学生を収容するため学生舎、予備学生舎そして兵舎、浴場、酒保、烹炊所などが立ち並んでいた。建物はほとんど木造であった。
・大戦終期には、延焼防止のために建物が間引きされるとともに、庁舎裏手の崖に碁盤の目状の大規模な防空壕が構築され、教室機能が移転した段階で終戦になった。
・終戦後、南方からの引揚に浦賀港が指定され、陸軍桟橋から上陸していたが、コレラが発生したことから、対潜学校に検疫所が設けられ、対潜学校の岸壁からも多くの方が上陸した。しかし、判明しているだけでも800名以上の方が亡くなり、敷地内東海岸に急遽火葬場を設置して、火葬にふされたという。刑務所の裏手には戦後建てられた供養塔が残されている。
・大戦末期には、水中特攻兵器である「伏龍」要員の養成が行われた。訓練は野比に2カ所設けられていた実習所で行われた。危険な兵器であったため、訓練中の死亡事故が多数あったようである。

(現状)
・広大な敷地は、現在分割されて、一部民間使用地もあるが、ほとんど国や市の施設として使われており、立ち入ることができない。
・航空写真で見る限り、当時の遺構はほとんど残っていないものと思われる。 唯一、講堂兼工作場の建物(カナカンが払い下げを受けて缶詰工場として使用)が残っていたが、最近取り壊された。
・当時を偲ばせるものとしては、海軍機雷学校、海軍対潜学校跡の碑と、軽質油庫の横穴くらいである。 なお、少年院内部に大塚山が残っているため、弾庫が残されているかもしれない。


久里浜少年院玄関。兵舎があった辺り 横須賀刑務所玄関。庁舎のあった辺り 庁舎裏の崖。鶴が崎という。
破却された講堂兼工作場 軽質油庫。駐車場として使用