横須賀海軍機関学校(横須賀海軍工機学校)

海軍施設

(沿革)
・明治40年4月22日:機関術練習所を海軍工機学校に改称。
・大正3年4月1日:海軍機関学校練習科に移管し、海軍工機学校廃止。
・昭和3年6月1日:海軍機関学校から分離独立し、海軍工機学校再設置。
・昭和16年4月1日:工作術教育を分離し、久里浜に海軍工作学校が開校。
・昭和18年4月27日:大楠分校を開設(*分校の開設時期は諸説ある。)
・昭和20年3月1日:横須賀機関学校に改称。大楠分校は大楠海軍機関学校として分離独立。
・昭和20年5月15日:閉校。大楠海軍機関学校の分校となる。練習生等は大楠機関学校に移す。

(概要)
・複雑な変遷を経ているが、士官、下士官兵に対して機関術、工術を教育する術科学校として昭和3年に再開された。軍艦はひとたび海上に出てしまえば、艦のあらゆる修理を自前で行わねばならず、機械、金工、木工、鍛冶、溶接、電気などの専門技術者が必須であった。
・関東大震災で機関学校の校舎が焼失したため、生徒科は江田島に移り(その後舞鶴移転)、横須賀に残った練習科が昭和3年に校舎を新築し、海軍工機学校として開校した。
・太平洋戦争の開戦を控えた昭和16年4月、工作要員の拡充のため工作術を分離し、工作術の専門術科学校である海軍工作学校が久里浜に開校する。
・昭和18年には、戦争拡大による機関科要員拡充のため校舎狭隘となり、大楠に分校を開設した。
・昭和20年3月の改称は、舞鶴の機関学校が舞鶴海軍兵学校舞鶴分校に改められたことに伴う措置である。結果、二つの機関学校が並立したが、大楠機関学校は、機関術のうち内火機関、電力機関、補助機械に関することを取扱い、横須賀機関学校はそれ以外を扱うことになった。

(現状)
・戦後、跡地には清泉女学院(カトリック系)や青山学院(プロテスタント系)が進出し、昭和22年工機学校の校舎を使って開校したが、いずれも移転し、現在は神奈川歯科大と横須賀学院のキャンパスとなっている。両キャンパスの北側はフェンスを境にして米海軍横須賀基地と接しており、隣接地は横須賀海軍病院の跡地である。
・当時の遺構としては、正門の脇門柱及び連なる壁の一部、レンガ造の汽缶場(配電所とも)、路肩の石積み、兵舎が残されている。 神奈川歯科大の校内には、昭和7年に建立された「軍人勅諭の碑」が、横須賀学院校内には、昭和43年に建立された「海軍機関学校跡の碑」がある。

正門の脇門柱が2本残る。レンガ造である。

コンクリート塀。海軍病院と同デザイン。

正門から三笠艦まで続くメイン通り

路肩の石積、側溝は当時のものらしい。

今も残る軍港水道の止水栓蓋

配電所か汽缶場と推測

兵舎。昭和13年頃の建築

兵舎の中央と隅には特徴的な半円タタキ

柱梁は空襲対策で太い

階段は蹴上が高い

軍人勅諭の碑

海軍機関学校の碑

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