久里浜臨港線

海軍施設
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大戦末期に建設された、久里浜駅手前から、軍需部倉庫地帯を通り抜け、軍需部岸壁まで約3kmの軍用引込線。

(経緯)
久里浜地区は、昭和12年に久里浜村が横須賀市に合併されて以来、拡大する海軍施設の受け皿として軍事施設が次々建設されていった。
昭和14年:海軍通信学校、昭和16年:海軍工作学校・海軍機雷学校、昭和19年:海軍工廠機雷実験部、そして海軍軍需部の倉庫、久里浜防備隊などである。 また、久里浜港を横須賀軍港の副軍港とするために、昭和17年から築港工事も進められていた。
これらの整備にあわせ、交通網も整備された。昭和18年に軍用34号国道(大津から久里浜)が完成。鉄道は、昭和16年に着工し、昭和17年12月に仮駅で開通した東急久里浜線。そして、横須賀線の久里浜延伸である。
横須賀線は、本来、観音崎までの延伸を目指していたが、海軍の強い要請により、昭和16年8月に横須賀〜久里浜間の工事に着手し、物資の欠乏するなか突貫工事により、昭和19年4月1日開通した。 この臨港線もこの頃建設されたものと思われる。
なお、久里浜駅からのルート開通前に、第1課倉庫地帯から岸壁までの軌道は完成していたようである。

(ルート)
久里浜駅構内には、現在も残る広い貨物側線があり、久里浜貨物駅も設けられていた。これらの側線は久里浜駅の手前から分岐していったが、最初の分岐が臨港線である。 分岐後、海軍軍需部の第二課・四課倉庫地帯の間を通り、次に軍需部の第一課倉庫地帯の間を通り、弧を描いて伝福寺の南を通過して軍需部岸壁に至る。 単線であったが、所々複線部分もあり、また倉庫内への引込線も設けられていたようだ。
しかし、戦後の地図などを見ると、弧を描かず。岸壁までまっすぐのルート(黒色)に変更されている。地元の方によると、戦争直後、現在の南処理工場の場所にあった駐留軍火薬庫の爆発事故(記録は未発見)があったため、ルート変更されたとのことである。
現在、軌道はすべて撤去されているが、道路脇に当時の軌道敷が空き地として残っていたり、軌道敷部分がそのまま道路になっていたりと、その面影を残している部分もある。


@臨港線の分岐場所。なんとなく、形状は残っている。

A久里浜工業団地内の道路。道路左手の空き地がかっての軌道敷

B軍需部二・四課倉庫地帯へ入る辺り。

C二・四課倉庫地帯の現在。かっては両側に倉庫が立ち並んでいた。

D京急線と立体交差。この先は一課倉庫地帯に入っていく。

E一課倉庫地帯。現在は工場地帯となっており、軌道敷は消滅。立入も出来ない。

F軌道敷は、道路沿いを走る。変更ルートは、この先、左手の住宅街を横切っていく。

G伝福寺脇の交差点。昭和56年頃完成。以前は立体交差で、下の道は千駄ケ崎砲台への軍道。

Hこの路地は軌道敷がそのまま道路となった場所

I軍需部岸壁付近。現在のパチンコ店駐車場辺り。

(臨港線分岐付近の変遷)

米軍撮影の空中写真(S22年)

国土交通省国土画像情報(カラー空中写真)(S52年)

久里浜貨物駅跡地。現在は広大な更地となっている。

久里浜駅の側線。久里浜機関支区が設けられていた。