火薬廠爆薬部(海軍下瀬火薬製造所)

海軍施設

概要
下瀬火薬とは海軍技手である下瀬雅充(まさちか)が開発したピクリン酸爆薬で、明治21年に発明されたとされるが、明治26年2月海軍が採用、下瀬火薬と名付けられた。
海軍はその製造工場を滝野川に建設することとし、明治30年着工、明治33年に開庁した。所長は開発者の下瀬雅充であった。 その破壊力は凄まじく、日露戦争の勝利に大きく貢献したとされる。日清戦争時には下瀬火薬を起爆できる信管がなかったため使用されなかったという。
製造工場は、その後の組織変遷を経て、昭和2年舞鶴に移転することになり、跡地には、東京外国語学校(後の東京外国語大学)が進出。因みに、舞鶴への移転は公害問題により立ち退きを迫られたからとする説がある。 蛇足だが関東大震災の被害は軽微であったという。 跡地に進出した東京外国語大学は、平成12年に府中に移転、現在跡地は、北区立西ヶ原みんなの公園やマンション、特養などになっており、火薬製造所の名残は残っていない。唯一、敷地南側の道路に下瀬坂の名前と軍道沿いに海軍用地の標石を残すのみである。

・下瀬坂説明板を転載:「この坂名は、明治三十二年(一八九九)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。平成二十年三月 北区教育委員会」

沿革
・明治30年 滝野川に製造工場着工。
・明治32年4月13日 が定められる
・明治32年6月21日 火薬製造開始
・明治33年1月15日 海軍下瀬火薬製造所開庁。所長に下瀬雅充が就任
・大正3年3月13日 海軍造兵廠条例に定められる。海軍下瀬火薬製造所条例廃止。
・大正8年4月1日 海軍火薬廠(平塚)創設。製造部、研究部、会計部が置かれ、製造部の第5工場となる。造兵廠火薬部廃止。
・大正10年11月16日 火薬廠製造部を火薬部と爆薬部に区分。火薬廠爆薬部として独立
・昭和2年 舞鶴移転が決定。4月から移転開始
・昭和5年3月 舞鶴移転完了
・昭和16年4月 舞鶴移転の爆薬部は第三海軍火薬廠となる
・昭和19年 跡地に東京外事専門学校が進出
・昭和20年4月13日 外事専門学校、戦災により全焼し、移転。
・昭和24年3月23日 外事専門学校が木造校舎新築。同年5月東京外国語大学となる。
・平成12年8月 東京外国語大学、府中に移転。

昭和11年6月陸軍撮影。
点線内が製造所の敷地である。舞鶴へ移転後のため、敷地内は更地になっているように見える。敷地周りには住宅がびっしり立ち並んでいる。敷地全体が平坦地に見えるが、東西で高低差があり、西半分(東側が大きいが)が高く、段差になっている。北側、敷地に隣接する部分に昭和5年創立の滝野川第八小学校(現在の西ケ原小学校)が見える。西に隣接する大きめの建物は大正11年設立の武蔵野高等女学校である。
出典:国土地理院ウェブサイトから一部を切り取って使用(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=694939)

昭和19年11月陸軍撮影。
西側の高地に昭和19年に進出した東京外事専門学校の校舎が造られている。空襲前のため密集した住宅よくわかる。
出典:国土地理院ウェブサイトから一部を切り取って使用(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=745261)

昭和22年7月米軍撮影の写真である。
東京外事専門学校は空襲で全焼、もちろん周りの住宅もほとんど焼失しているようだ。滝野川第八小学校はすでに校舎が新築されているが、この年に北区立西ヶ原小学校と改称された。校庭にはバラックが建てられているようだ。武蔵野高等女学校も校舎が建てられているが、昭和23年に武蔵野中学校高等学校と改称した。
出典:国土地理院ウェブサイトから一部を切り取って使用(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1177397)

昭和31年米軍撮影の写真である。
戦災から復興した姿。昭和24年に建てられた東京外国語大学の校舎も見える。西ヶ原小学校、武蔵野高等女学校ともに増築されている。
出典:国土地理院ウェブサイトから一部を切り取って使用(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=166694)

平成元年11月国土地理院撮影の写真である。
すっかり東京外国語大学のキャンパスになっている。西ヶ原小学校、武蔵野高等女学校共に鉄筋校舎に代わっている。
出典:国土地理院ウェブサイトから一部を切り取って使用(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1050892)

令和元年8月国土地理院撮影の写真である。
東京外国語大学の府中移転後の姿。跡地は公園やマンションに変わった。
出典:国土地理院ウェブサイトから一部を切り取って使用(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1876334)

遺構

下瀬坂

 

5基残る海軍用地標石

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