東京第二陸軍造兵廠板橋工場(板橋火薬製造所)

陸軍施設

概要
幕末、幕府は石神井川の水力が利用できる滝野川に火薬製造所を作るため、幕臣の澤太郎左衛門を欧州に留学させた。澤は火薬の製造法を学び、ベルギーから製造機械を持ち込んだ。
しかし、計画途上で幕府は倒れ、明治維新を迎えた。明治新政府も石神井川の水力に目を付け、澤太郎左衛門を登用、旧加賀藩邸に幕府が購入した機械を設置して火薬製造を開始した。これが板橋火薬製造所の始まりであり、明治36年には火薬研究所も開設され、以来陸軍の火薬製造・開発の中心であり続けた。昭和15年に名称が東京第二陸軍造兵廠となり、通称二造と呼ばれ、敗戦を迎えた。
なお、二造の下には戦火の拡大に併せて増大する火薬需要に応じるため全国に火薬製造所が開設されていった。深谷、櫛引、坂ノ市、荒尾、曽根、香里製造所である。
王子製造所から軽便軌道(電気軌道)が敷設されており、火薬原料を運搬していた。さらに兵器本廠へも軽便軌道が引かれていた。 跡地は、東京家政大学や帝京大学、区立中学や理化学研究所、野口研究所などに払い下げられ、文教地区となっている。

沿革
・明治06年5月 新政府は板橋旧加賀藩邸に火薬製造所設立を決す
・明治08年 火薬製造所工事起工
・明治09年 工事完成。陸軍砲兵本廠板橋属廠と命名。滝野川分工場開設
・明治12年 陸軍砲兵工廠火薬製造所に改称
・明治15年 板橋火薬製造所に改称。岩鼻火薬製造所開業
・明治26年 海軍目黒火薬製造所が陸軍省に移管
・明治27年 宇治火薬製造所設立
・明治28年 王子火薬製造所設立。火薬製造は明治32年から。
・明治36年 陸軍火薬研究所設立
・明治38年 稲村に発射試験射撃場(稲付射場)を設置
・明治41年 陸軍工科学校板橋分校開校
・大正08年 火薬研究所は陸軍科学研究所の第2課(大正14年から第2部)になる
・大正12年 陸軍砲兵工廠は造兵廠になり、板橋火薬製造所は火工廠に属す。
・昭和07年 陸軍科学研究所の第2部は火工廠に吸収され研究科となる。
・昭和12年 火工廠より研究科を分離し造兵廠本部直轄の東京研究所とする。
・昭和14年 多摩火薬製造所創設
・昭和15年 東京第二陸軍造兵廠板橋工場となる。東京研究所も第二陸軍造兵廠研究所となる。
       その後、戦火拡大に比例して増加する火薬需要に対応するため、全国に火薬製造所が造られた。
・平成29年10月13日 「陸軍板橋火薬製造所跡」国史跡に指定

※指定理由「明治政府によって初めて新設された火薬製造所跡であり、かつ、初めて設置された近代的な理工学系の研究所跡である。また、明治から大正にかけての軍による独占的な火薬生産の状況とその後も含めた生産の拡張、西洋計測技術の導入の実態を示すものとして、広範囲に遺存状況が良好なのは首都においては他になく、全国的に見ても稀である。よって史跡に指定し保護を図ろうとするものである。」

昭和22年8月米軍撮影。
写真右手、北から南に走る直線は赤羽線(通称埼京線)。赤枠内が敷地である。
中央やや南寄りを南東に蛇行して流れているのが石神井川。右手が下流側になる。
川の北側が火薬製造と貯蔵エリアであり、四角い土塁で囲われているのが火薬貯蔵庫である東側が無煙薬倉庫、西側が炸薬倉庫エリアであり、敷地の半分以上を占めているのがわかる。
川の南手は本部、事務所エリアであるが、下流側の最南部が火薬研究所である。事務所エリアに見える3つの池は軍用水道の沈殿池である。なお、工科学校分校は赤脇外に隣接して設置されている。
出典:国土地理院ウェブサイトから一部を切り取って使用(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1170656)

令和1年8月撮影。
約70年後であるが、石神井川の流れはほとんど変わっておらず、また、敷地境界も辿ることが出来る。
北西の火薬貯蔵エリアは加賀中、帝京大学に北東のエリアは、東京家政大学、朝鮮学校、公務員宿舎となっている。また、敷地のほぼ中央部を北西から南東にかけて横切って加賀学園通りが造られている。
石神井川南手の事務エリアは住宅(マンション)と公園、火薬研究所跡地は、野口研究所、理化学研究所、加賀公園ほかとなっている。沈殿池は覆土され
野口研究所と理化学研究所は移転・廃止となり、加賀公園を含めた範囲が国史跡「板橋火薬製造所跡」に指定され、数多くの遺構が残されている。
工科学校分校跡は板橋第五中学校になっている。
出典:国土地理院ウェブサイトから一部を切り取って使用(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1876752)

遺構
北側の貯蔵エリアの遺構はほぼ残っていないが、石神井川下流部の火薬研究所エリアとその周辺には多数の遺構が残っている。史跡指定エリアはもちろん、愛誠病院や東京家政大学の構内などにもかなり改修されているが、当時の建物等が残されている。なお、震災前の建物は震災被害によってかなり改修されている。
(参考)史跡陸軍板橋火薬製造所跡保存活用計画

レンガパークに大正期の煉瓦造工場の壁
が保存されている。

構内あった陸軍消火栓

旧試験室。煉瓦造

旧仕上収函仮置場。煉瓦造。元は平屋。

旧溶剤回収室。レンガ造片流れ。

旧予備乾燥室。レンガ造片流れ。

旧乾燥室。レンガ造平屋。

旧綿薬配合室。レンガ造。

旧駆水室。レンガ造。

旧科学実験室。SRC造

旧混同室。煉瓦造一部2階建。

旧混同室。煉瓦造。現在は別棟となっている。

旧爆薬理学実験室。煉瓦造片流れ

旧物置。煉瓦造。

旧爆薬理学試験室。RC造、昭和期。

旧物理試験室。明治と昭和建造の3棟が接続

旧燃焼実験室。RC造。昭和18年。

旧爆薬製造実験室。RC造、昭和10年。

旧銃器庫。RC造。昭和20年前後に改築。

旧加温貯蔵室。RC造。昭和期

旧常温貯蔵室。手前は地下貯蔵庫(水槽)。

旧試験室。RC造。2棟が縦に並んでいる。

旧弾道管。射朶まで続いていた。

旧射朶。

旧土塁。南北に平行して二本存在。

旧塀。鉱滓煉瓦とコンクリートが接続

旧土塁。変電室の場所とされる。

旧軽便軌道跡。火薬研究所部分

旧軽便軌道橋脚跡(橋台)。赤羽線高架

兵器本廠への軌道跡。
突き当りは環七の隧道跡。

圧磨機圧輪記念碑

招魂之碑

加賀前田家下屋敷跡碑(加賀公園)

(稲付射場)
板橋火薬製造所で製造された火薬の発射爆破試験場。跡地は梅木小学校及び住宅になっている。

境界塀(敷地南側)

境界塀(敷地北東側)

境界標石(陸軍用地)

このページのトップへ