武山高角砲台

高角砲台(防空砲台)

横須賀海軍警備隊 第四高角砲大隊 武山高角砲台という。 武山と言っても、つつじで有名な武山ではなく、 東に続く尾根の通称砲台山(大塚山)にある。当初、40口径3年式8センチ高角砲が4門が昭和17年10月に竣工しているが、昭和20年頃に12.7センチ連装高角砲2基4門に改変された。他に13ミリ連装機銃2基、13ミリ単装機銃3基及びス式110糎探照燈2基、サ式4米高角測距儀1基を装備。 測距儀は計算所からの橋の脇にあった。発電所は北の麓に、ポンプ所は東南の麓にあった。 探照灯は、通信所と高角砲座から600m西南の尾根に設置されていた。配備人員は111名であった。 なお、指揮所も設置されていたが、計算所か通信所と推測しているうちのどちらかであろう。
戦後、朝鮮戦争の勃発に伴い米軍に再接収され、ヘリコプター訓練場となった経緯がある。
現在、山頂部分は広場になっており、海上保安庁の受信所が建っている。その隣に1基、 少し離れた藪の中に1基砲座部分が残っている。また、周囲には探照灯や兵舎などの遺構が残っている。 NTTの通信研究所から通じる林道は、この砲台のために作られた軍道である。
現地調査をもとに終戦直後、現場を見た方から聞いた情報よって作成。

中央の砲座全景。正面に砲座へ降りる階段、
その左側に砲員待機所。壁の四角い穴は砲
側弾薬庫。中央部に12.7p高角砲を据付け
た。擂鉢の縁には照準用の目盛が刻まれて
いたらしく、また縁から内側向けて2m 程度
の土製掩体が築かれていたらしい。

砲側弾薬庫。
全部で8箇所ある。

砲員待機所。天井が崩れ
ている。

高角砲座間にある機銃掩
体。 直径4m、深さ1.5m。
終戦直後にはなにもなかった
とのことである。

北側の砲座。崩れた掩体の
土砂で埋まり、藪で覆われて
いる。

砲員待機所は、入口が壊さ
れているだけで形は残る。
幅約4m、奥行2.5m。

計算所跡。木造2階建、1階が電気室、2階が計算室で、2階には計算装置の筐体が2つ設置され
その基礎を支えていたのが、この2本のコンクリート柱である。1本高さ約4.5m、幅約0.85mの角柱
で約5mを隔てて2基並んでいる。計算所の両端は土手が築かれ、右手から階段で2階部分に至る
ようになっていた。また。2階の計算室から高角砲の台地へは橋が架けられていた。戦後米軍に
よって調査された後、燃やされた。

柱の内部。空洞である。

弾薬庫の基礎。背後の高台には戦後探照灯が据えられていたそうである。 探照灯は、中央部の通信室に据えられていたと推測されるため、終戦時に
移動されたものと考える。

弾薬庫脇には天水桶が残る。同様のものは衣笠山砲台にも残っている。

衛兵所@の基礎。六角形状
である。荒崎砲台にも同様
の基礎が残っている。

通信所へ向かう途中の分岐
に残る衛兵所A基礎。衛兵
所Bは三浦富士への分岐
にあった。

東の丘の中腹にある探照
灯の台座。通信所を併設
している。


探照灯台座の下部。建物
に併設されている。

通信所建屋の基礎。基礎の
幅は25cm。通信所は平らな
コンクリート屋根であり、右手
から階段で登ようになってい
た。回光通信の信号灯が
あったそうである。

建物内部にある何かの機器
を取りつけた円形基礎。ボル
トが残っている。

通信所施設の下部にコンク
リート壁に挟まれた通路状
の遺構がある。

東の丘上には円形掩体が
2基残る。掩体手前の横檣
的な石積み。

右手の掩体。直径4m程度。
機銃掩体と推測。

東の低地には兵舎があった。
長いコンクリート基礎や柱
の土台が残る。


30m程ある横の基礎

柱の土台

排水施設

貯水施設

地元の北下浦郷土誌によると、昭和16年海軍の兵隊により大塚山山頂への道の工事が始まり、 4ヵ月後には完成、直ちに砲台を築いた。その後、昭和18年6月から7月にかけて (昭和20年の誤りであろう)アメリカの艦載攻撃機に対し発砲、戦後3基の砲座跡が残され(昭和29年の地形図にも凹部が3個所記載されている)、大蔵省から海上保安庁と 所管が移り、現在、第三管区海上保安部武山電信所として稼動中とある。

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