千代ケ崎砲台

<沿革>横須賀市川間
・明治25年起工、明治28年竣工。
・明治27年二十八榴弾砲4門、同30年2門据付、昭和19年撤去。
・明治28年十五センチ臼砲4門据付、昭和元年撤去。
・明治33年一二センチ加農砲4門据付、昭和10年撤去。この他七センチ野砲設置。
・要塞整理事業として本砲台の東低地に大正13年三十センチ加農砲塔砲台起工、翌年竣工、終戦時残存。

<構造・現状>
平根山の山頂に構築された保塁砲台。中央部に28p榴弾砲を2門設置する楕円形の砲座が南北に3基並び、その西側に平行して一直線に空堀状の掩蔽部が設けられ、塁道と弾薬庫、兵舎が造られている。観測所は砲座の両端にあった。
榴弾砲台の南手は陸正面防御用の堡塁であり、中央の独立小丘の西側に2基一組の砲座が3個所、東側には空堀が造られ前面は一直線の歩兵用胸墻となっていた。小丘には榴弾砲台の右翼観測所がある。 この堡塁には加農砲や野砲が設置され、3か所の掩蔽部も造られている。
明治中期の砲台で、レンガ造砲台の完成形である。地下施設の胸壁はレンガ造、アーチ部はコンクリート造である。レンガはイギリス積で、露天部や入口など風雨にさらされる部分には焼過ぎレンガが使用されている。地下施設は防湿のために排水施設が充実しているので注目してほしい。。
榴弾砲台部分は長い間、海上自衛隊横須賀通信隊千代ケ崎通信所として立入り禁止であったが、平成20年8月の報道で、千代ケ崎送信所が廃止になり、横須賀市が国の指定を受け史跡として保存していくことが発表された(平成27年3月10日、猿島砲台とともに国史跡に指定)。
横須賀市は、平成28年10月5日に文化財保護法に基づき史跡東京湾要塞跡(千代ヶ崎砲台跡)の管理団体に指定され、平成30年現在、教育委員会主催で隔月で見学会が開催されている。横須賀市では埋められていた砲座や観測所を発掘するなど全貌解明に力を入れており、いずれは一般開放することを目指している。⇒安全工事やガイド養成が進められ令和3年から一般公開されている。
南側の堡塁部分は、民地であり養豚場として使われた後は永い間放置されていたが、2004年頃から農園の造成工事が行われ、胸墻や横墻が削平されたが、掩蔽部や右翼の観測所は残された。現在、浦賀ファーマシーガーデンという観光農園となっている。

S29年撮影航空写真

M41年版地図

全体平面図

榴弾砲台

榴弾砲台平面図(赤破線は地下部分)

発掘された第三砲座

砲台の入口

砲座西側に平行して設けられた塁道

露天部に設けられた掩蔽部正面

砲側弾薬庫。窓は点灯窓

揚弾井を下から見上げる

塁道の露天部

高塁道へ上がる地下階段

砲座を結ぶ地下高塁道。左右に揚弾井

塁道最南端。右手の横穴は貯水所

掩蔽部内部

貯水所

入口前の井戸

南側堡塁

⇒右翼観測所詳細へ

左手の丘陵が右翼観測所。
観測所の詳細は別ページ

北側榴弾砲台の塁道口

南側空堀。歩兵用胸墻は削平された。

胸墻へ上る階段。3か所あったが撤去された。

井戸。現存。

掩蔽部1入口

掩蔽部1の内部通路。先は弾薬庫

掩蔽部1の弾薬庫

掩蔽部2の南側入口

掩蔽部2弾薬庫

掩蔽部2北側入口

掩蔽部3の入口

掩蔽部3弾薬庫。震災時の亀裂が残る。

掩蔽部3通路突き当り

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