金谷砲台

<沿革>富津市
・大正12年12月:起工
・大正13年3月:竣工
・大正13年9月:7年式15p加農4門据付
・昭和13年8月:備砲返納
・昭和18年3月:除籍
・昭和18年4月:38年式10p加農4門編成として復位
・七年式十五糎加農四門⇒三十八年式十糎加農四門

<構造>
震災後の応急砲台として千駄ケ崎砲台、走水第二砲台とともに建設された。
鋸山北方の山上に、湾口部を向いて4つの砲座が並び砲座間には低い横墻が存在する。胸墻、横墻とも砲座周囲はコンクリート製である。
砲座の背部には小山が築かれ、その地下にコンクリート製の砲側庫がある。内部は通路が十字に交差しており、部屋が6室設けられている。
第2砲座と第3砲座間の横墻には背部の小山から通じる通路があり、砲座前面に通じている。通路下に地下砲側庫の通路があるが、背後からみてTの字に突き当たり左右に出入口が開口している。 砲座右翼に観測所、照明所は中腹に設けられた。

<現状>
終戦まで存続した砲台である。
戦後「砲台山ハイランド」という遊園地として利用された(昭和40年中ごろに廃止され今は廃墟として知られる。当時は麓から山頂までリフトが運航していた。現在もバス停名称に「砲台山」が残る。)が、砲座や砲側庫をそのまま活用していたため、今もその遺構が残る。
若干手が加えられているようだが、4つの砲座は池として利用され、背部の砲側庫は倉庫などで使われていたようである。
砲台の施設としては、このほかに水尺や油庫、そして看守衛舎とおぼしき建物なども残る。砲台敷地を示す防御営造物の標石もあちこちに残っている。
全体としてはかなりの遺構が残り、特に木造建造物や水尺など他ではほとんど残っていないため大変貴重である。しかし、いつ撤去されてもおかしくない状態である。
*2008年に現地調査したが、その後当地は立入禁止となっているようである。

第3砲座

中央墻下は第2、第3砲座間の連絡通路

地下砲側庫への背面入口

砲側庫内暗路十字部分

弾薬庫入口。鉄枠が残存

同左。弾薬庫内部

油庫。扉が残っている!

看守衛舎

用途不明建屋。窓には鉄格子

水尺(規正標柱)

砲台敷地を示す防御営造物標柱

砲台山ハイランド期のリフトの鉄柱

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