小網代昔日譚

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昭和4年頃 昭和38年 昭和58年 令和8年

【目次】
◇プロローグ
◇小網代の歴史と記憶 1 潮干狩り 2 干潟遊び 3 海水浴 4 魚釣り 5 ゴルフ場 6 田園風景 7 大湿原の変遷
8 狩猟区域 9 森の風景
◇エピローグ

◇プロローグ

一般に「小網代の森」とは、三浦半島中央部の引橋の谷戸に端を発する小川沿いの森と湿原、そしてその川が注ぐ小網代湾までの一帯の自然を総称したものです。
しかし、この名称は古くからあったわけではなく、近年になって言われ始めたものです。かつて地元住民は、単に「小網代の海」や「ゴルフ場の下の田んぼ」などと呼び、身近な遊び場として親しんでいました。どこにでもある普通の谷戸の一つだったのです。それが、小網代・三戸地区の開発計画が持ち上がったことで一変します。開発反対と自然保護の運動が巻き起こり、一躍クローズアップされることになりました。
そして、市外から「ナチュラリスト」と称する人々が入り込み、隅々まで調査・探検を行ってその貴重さを証明していきました。彼らは自然を保護するために、ブックレットの発行や講演会、観察会の開催といった啓発活動を展開。現地では案内マップや看板を製作し、さらには土地の買い上げや管理ルールの策定など、熱心な取り組みを進めていったようです。
しかし、独断と偏見を恐れずに言わせてもらえば、子どもの頃からここを遊び場としてきた地元住民にとって、その光景は複雑なものでした。自然保護を掲げた部外者が我が物顔で歩き回り、勝手に名前をつけ、我々にとって当たり前だった日常を「貴重な出来事」としてもてはやす。その姿はまるで、文明を振りかざして未開の地に進入してきた白人と、それに対峙する先住民の心境のようでもあります。
それはさておき、小網代の将来を考える上で、その過去を知ることは決して無駄ではないはずです。拙い内容ではありますが、これからの参考になれば幸いです。

◇小網代の歴史と記憶

江戸時代の様子は定かではありませんが、少なくとも明治末期には、すでに谷戸の奥深くまで水田が広がっていたようです。
その後、昭和30年代には小網代湾を望む高台周辺に別荘や結婚式場、ゴルフ練習場などが開設され、リゾート地として賑わった時期もありました。しかし、私が転居してきた昭和40年代には、すでに結婚会館や練習場は閉鎖され、別荘なども取り壊されて、まるで過疎の村のような静けさに戻っていました。
さらに昭和50年代の手前になると、水田も次々と放棄されていきます。かつての田んぼの跡地には草木が青々と繁茂し、次第に自然へと帰っていきました。今や当時の田んぼはすべて姿を消し、かつての里山の面影はまったく残っていません。 つまり、現在「貴重な自然」と謳われている森の姿は、実は大昔からそこにあったわけではなく、30年ほどの歳月をかけて自然が新たに作り出したものなのです。
とはいえ、古き良き昭和40年代には、まだ人の手が入った美しい「里山の風景」が広がっていました。田んぼの周りには畦道(あぜみち)が縦横に走り、その向こうには美しい小網代の海が光る――子ども心にも四季折々の美しさが焼き付いており、私たちにとって最高の遊び場でもありました。そんな、かつての小網代の懐かしい姿をお伝えします。  

1 潮干狩り

水がぬるむ季節になると、よくアサリ掘りに出かけたものだ。勝負は干潮の間だけなので、新聞で潮見表を調べては、熊手とバケツを手に家を飛び出した。ゴルフ場から見下ろすと、黒っぽい干潟の上はカラフルな格好の人々で賑わっている。
ゴルフ場の山を駆け下り、田んぼの畦道を飛ぶように走って、早速掘り始める。アサリが干潟のどのあたりにいるかは経験で分かっていた。干潟の先の方から、まだ人が手をつけていない場所を狙って掘り進めていく。 コツは、あまり深く掘らないこと。アサリはごく浅いところにいるので、熊手で軽く砂を引っかくだけで、コロコロと小気味よく出てくるのだ。ただ、砂利に混じっているので、瞬時に石とアサリを見分けるにはちょっとした慣れが必要だった。深く掘りすぎると、たまにシオフキ(別の貝)が混じるくらいだ。
夢中でそこら中を掘り回っていると、いつの間にか満潮の時間が近づき、すぐそばまで波が寄せてくる。潮に追われるように少しずつ移動していくが、岩場のあたりでタイムアップ。これより奥にはアサリはいない。
バケツ一杯に収穫があると、今度は持ち帰るのが一苦労だった。海水でタプタプになったバケツは重く、ゴルフ場の心臓破りの坂を、何度も休み休み登って帰宅する。しっかり砂を吐かせて、明日の朝はアサリの味噌汁だ。  

2 干潟遊び

子どもにとって、小網代の海は格好の遊び場であった。といっても、そこで遊んでいるのはほとんど私たちだけで、他の子どもの姿を見た記憶はほとんどない。
遊ぶのはたいがい干潮時であった。ゴルフ場から見下ろして潮が引いているのが分かると、いそいそと出かけていったものである。主な舞台は、干潟にできる小川だった。ただ浅瀬をジャブジャブと歩くだけでも楽しかったし、石を組んでダムを作ったり、自作の船を流して競争したり、ボラを追いかけたりして過ごした。 ボラはいつも群れをなしていた。水深5〜10pほどの浅瀬に、時には30pもの大物が混じっていることもあり、たも網を握りしめてバシャバシャと追いかけたものだ。
川は干潟の上を蛇行しながら、中央にある岩場の下を通って海へ注いでいた。その岩場のあたりは少し深くなっていて(トロ場)、ハゼやボラ、名前も知らない魚がたくさん泳いでいた。ボラの群れも結局はこの深場へ逃げ込んでしまうため、捕まえられた試しはなかった。
ボラといえば、河口の石橋の下も深みになっており、そこでも大物が悠々と泳いでいた。不思議なことに、大物に限ってなぜか体に傷を負っており、今思えばあれは傷を癒やしていたのかもしれない。遊んでいると、本当にさまざまな生き物が目についた。当時は「自然観察」なんて気の利いた考えはなかったが、変わった生き物を見つけると、家に帰って図鑑で調べるのが常であった。
特に面白かったのが、「クサフグ」の大群である。普段からよく見かける魚だったが、ある時期になると、波打ち際に信じられないほどの大群で押し寄せてくるのだ。干潮から満潮にかけて潮が満ちていく水際で、彼らは群れていた。足元をドンと踏み鳴らすと、一斉に沖へ逃げていく。またある時は、何の前触れもなく水際に近づいた途端、足元でバシャバシャと大群が動き出し、心底びっくりさせられたこともあった。今にして思えば、あれが現在有名になっている「クサフグの産卵」の光景だったのだろう。
また、誰もいない干潟一面に、米粒ほどの小さな生き物が無数に動いていることもあった。近づくと足音を察知して、一斉に巣穴に隠れてしまう。チゴガニのウェービングである。 カニについては、時代の移り変わりとともに生態系が変わっていったように感じる。アサリ掘りが盛んだった頃はコブシガニがたくさんいたが、アサリ掘りが廃れると、なぜかコブシガニを見かけなくなり、代わりにシオマネキが現れ始めた。シオマネキは図鑑の常連でよく知っていたため、初めて見つけたときは飛び上がるほど嬉しかったのを覚えている。それからはカニといえばシオマネキばかりになったが、今ではそのシオマネキさえ、ほとんど姿を消してしまったようだ。さらに、かつて干潟の主役だったアシハラガニも、どうやら外来種のアライグマの食害によっていなくなってしまったと聞く。
ほかにも変わったところでは、大潮の日にアマモやアオサの茂みをめくって探していたとき、「イザリウオ」と「ウミテング」を見つけたこともあった。これも帰宅後に図鑑をめくって正体が分かったのだが、今でも鮮明に思い出せる、懐かしく愛おしい記憶である。

3 海水浴

今思うと不思議なことだが、小網代湾で泳いだことは一度もない。波は静かで水も澄んでおり、遠浅の海は海水浴に最適だと思われるにもかかわらず、小網代では泳がなかったのだ。
これには、他に泳いでいる人が誰もいなかったという理由もあるが、そもそも小網代湾の海水を「汚い」と感じていたことが大きかった。当時、小網代の集落の方にもよく遊びに行っていたのだが、漁港周辺の海がゴミやヘドロで臭く、汚れている状態を何度も目にしていたからである。また、夏場になると海水が濁ることも、体を浸すのを躊躇させた。
しかし、水にまったく入らなかったわけではない。腰まで水に浸かりながら、お気に入りのプラモデルの船を浮かべて遊んだりしたことは、今でもよく覚えている。  

4 魚釣り

河口にある石橋の上は、子どもたちにとって絶好の釣り場であった。 餌は、近くの干潟を掘って自分たちで調達した。当時はゴカイだと思い込んでいたが、今思えばスナイソメやジャリメの類だったのだろう。冬場は特に水が澄んでおり、泳ぐ魚の姿を目で追いながら釣ることができた。釣れるのはダボハゼばかりであったが、面白いように数が釣れるため、誰が一番多く釣るか競い合ったものである。
さらに本格的な釣りをするときは、沖の桟橋まで足を延ばした。現在はコンクリートで強固に固められているが、当時は桟橋の先端に「小網代の船」と呼んでいた小船が係留されており、その上が私たちの特等席だった。そこではメゴチがよく釣れ、時にはキスやハゼ、ヒイラギなども顔を見せた。 また、釣れなくても船の上から海を覗き込むだけで退屈しなかった。そこにはヨウジウオやアカヤガラ、ホウボウ、さらにはエイなど、一風変わった魚たちが悠々と泳いでいたからである。
ある時、ウナギが大量に死んで浮いているのを見つけたことがあった。当時の小網代湾にはボラとダボハゼくらいしかいないと思い込んでいたため、これには大変驚かされた。今にして思えば、上流の田畑で使われた農薬などが原因だったのかもしれない。  

5 ゴルフ場

現在ではまったく面影がないが、かつて小網代湾を見下ろす高台には、打ち放しのゴルフ練習場があった。
いつオープンし、いつ閉鎖されたのかは定かではない。私が物心ついた時にはすでに営業を終えており、フェンスやクラブハウスは破壊され、所々に雑草が蔓延る廃墟と化していた。 しかし、そこは景色が抜群に良く、誰でも自由に出入りできる一面の芝生広場だったため、私たちにとっては最高の遊び場となった。
また、このゴルフ場を通り抜けて下の水田へと降りていく道は、小網代湾へと向かう定番のルートでもあり、そんな理由からも毎日のように通ったものである。なお、ゴルフ場跡は水源地の近くにもう一箇所あったが、あちらは谷戸の底に沈む不気味な廃墟だったため、あまり近づかなかった。
ゴルフ跡地での遊びといえば、何といっても「芝ソリ」であった。芝生の斜面を、ベニヤ板をソリ代わりにして滑り降りるのだ。使い込むほどに板の底へ芝の油が染み込み、ツルツルとよく滑るようになるため、自分のお気に入りの板切れを宝物のように大事に使ったものである。また、南向きの斜面は冬でも暖かく、草むらをかき分けては、暗くなるまでかくれんぼや鬼ごっこに興じた。ある時、草むらをかき分けた瞬間に目の前を大きな鳥が羽ばたき、肝を冷やしたことがある。ヤマドリであった。
ゴルフ場の下部には、ティーショット用と思われる、細長く砲台状に盛り上がった芝生の台地があった。そこに寝そべって眺める小網代の海は、まさに絶景であった。また、左手には藁葺きの小屋があり、そこを私たちの「秘密基地」にしていた。しかしある時、近くの高校生が火遊びをしてその小屋を燃やしてしまった。何台もの消防車が集まる大騒ぎとなり、ひどく驚いたことを今でも鮮明に覚えている。
そんなお気に入りの遊び場も、自分が年齢を重ねるにつれて足が遠のいていった。たまに通りがかるたびに藪は深くなり、いつしか鉄パイプの柵で封鎖されてしまった。
現在の敷地は雑草と低木が生い茂り、当時の面影はどこにもない。あの素晴らしい海を望むこともできなくなってしまった。かつては鉄柵の隣に藪を切り開いた一箇所の出入り口があり、そこから昔と変わらず小網代湾へ下りることができていたのだが、今ではそれも完全に塞がれ、通行不可となっている。

6 田園風景

現在は深い草藪とジャヤナギの湿原が広がっているが、昔はそこ一面が美しい水田地帯であった。
ゴルフ場からつづら折りの里道を下りていく。雑木林に囲まれた、とても気持ちの良い道だ。木々の切れ目からは、陽の光を浴びてきらきらと輝く小網代の海が時折顔をのぞかせる。坂を下りきると、目の前にぱっとのどかな田園風景が広がり、畦道が綺麗な幾何学模様を描いていた。右手の畦道を選び、道なりに直角のカーブを曲がりながら中央の石橋へ向かう。そして石橋の手前で小川の右岸沿いの畦道に入り、小網代の河口の橋へと抜けるのが、私たちのいつものルートであった。
この懐かしい風景の中で、特に心に残っているのが「桜並木」「カエルの卵」「イトトンボ」である。
今は藪が深く遮られて近寄ることもできないが、かつては見事な桜並木が続く畦道があった。山桜ではあったが、春になるとそれは見事に咲き誇った。風に舞ったピンクの花びらがひらひらと田んぼの水面に降りていく様は、子ども心にも息をのむほど美しく、今でも鮮明に覚えている。
春先、水がぬるむ頃に畦道を歩いていると、あちこちにカエルの卵が見られた。まるで黒ゴマの入った寒天のような塊が、水中に生みつけられているのだ。やがてオタマジャクシが生まれ、手足が生えてカエルへと成長していくわけだが、中身が孵ったあとの、ふやけて濁った卵の抜け殻だけは、どうにも不気味で気持ち悪かった。
夏を迎えると、稲のむせ返るような草いきれの中に、青や黄色のイトトンボが姿を現した。彼らは優雅に畦道を飛び回っており、思いのほか簡単に手で捕まえることができた。水辺が豊かなせいかトンボの種類も多く、小川沿いでは羽が茶色いカワトンボが艶やかに舞っていた。そして夏が終わりに近づくと、どこからともなく赤とんぼが大量に発生する。夕暮れ時、ゴルフ場の芝生の上でその大群を見上げながら、子どもながらに秋の訪れを感じたものである。 

7 大湿原の変遷

現在、大湿原の中央部を突っ切るように桟道(遊歩道)が設置されているが、かつての畦道は水田に端にあった。現在は定期的に手入れをされているため、それほどではないが、ほっておくと周囲が見えないくらいの草藪に覆われてしまう。今日に至るまでの劇的な変遷を紐解いてみよう。
田んぼが放棄されると、沼地化していき、雑草が徐々に生い茂り始める。それと同時に、田と田を隔てていた畦道も徐々に水に侵食され、全体が泥深い沼地へと姿を変えていった。この頃はまだ、春になると畦道沿いにセリが青々と自生し、よく摘みに行ったものである。また、どこから種が運ばれてきたのか、雑草に混じってガマが急増した。秋になると、茶色いガマの穂が行儀よく風にそよぎ、かつての田園風景に新たなアクセントを添えていた。しかし、周囲の畦道は人の往来が途絶え、手入れもされなくなったため、主にササが激しく生い茂って通行不能となった。
その後、雑草の丈がさらに高くなるにつれ、水が徐々に引き、沼地から湿地状へと環境が変化していった。中には乾燥して人が立ち入れる広場のような場所もでき、春にはツクシが一面に顔を出した。その広場に腰を下ろし、春の日溜まりの中でぼんやりと鳥のさえずりに耳を傾けていると、自然の深い安らぎを感じたものである。
しかし、大部分は一見すると草に覆われて歩けそうに見えるものの、実際は泥濘であった。足を踏み入れると、踏みつけた草の間からじわじわと水が染み出してくるため、長靴なしには歩けない。ちょうどこの頃から小網代の存在が外部に知られ始め、団体の見学者などが立ち入るようになった。大勢の人間が同じ場所を踏み荒らすことで、当然ながらぬかるみは悪化。先述の乾燥していた広場までもが、またたく間に泥沼と化してしまった。また、いつのまにか、ジャヤナギが蔓延ってしまった。
一般開放されるまでは、昔の地形とは関係なく、関係者や観光客が歩き回った跡がそのまま道になっていた。ただ、その中でも地盤がとりわけ固い部分だけが、かつて私たちが歩いた「本物の畦道」の跡なのである。
⇒現在は桟道が設置され関係者以外湿地内を歩くことはできない。

8 狩猟区域

このように広大な自然が残されているためか、この一帯は現在も狩猟区域に指定されているようである。
昔から冬になると、遠くの方で猟銃の「ドーン」という音がよく響いていた。小網代の里道を歩いていると、空の薬莢がよく落ちていたものである。かつてはハンターに向けて「付近に民家あり注意」という看板が立てられていたが、いつの間にか見かけなくなってしまった。
驚くべきことに、現在もここで狩猟が行われている。すぐ近くにこれだけの住宅地があり、なおかつ「新生・小網代の森」として大勢の観光客や自然観察者が山に入っているにもかかわらず、いまだに発砲が許可されているのだ。ここは丹沢の山奥ではない。時代錯誤も甚だしく、いつ誤射事件が起きてもおかしくない状況である。行政関係者による速やかな対応と、区域の見直しを強く望む。
⇒現在は鳥獣保護区に指定されているので狩猟は行われない。

9 森の風景

小網代の森と小網代湾が織りなす一帯の風景は、「神奈川の景勝50選」やそれに類する企画に選ばれてしかるべき、素晴らしい眺めである。しかし現在、この絶景を遮るものなく見下ろせる場所は限られており、せいぜい2、3箇所程度になってしまった。
個人的には、法務局跡のあたりから見下ろす景色が一番美しいと感じている。深い森の先に広がる小網代の海が、まるで静かな湖のように見えるのだ。昔はこの周辺に建物が何もなかったため、歩きながらいつでもこの景色を堪能できた。しかし今では道路沿いに民家が建て込み、家々の隙間からわずかに覗く一箇所を除いて、ほとんど見ることができなくなってしまった。この素晴らしい景色を独占されてしまったようで少し寂しいが、こればかりはぼやいても仕方がない。
四季の移り変わりを最も敏感に教えてくれるのが、まさにこの場所からの景色である。冬の褐色に沈んでいた世界から春を迎えると、木々の梢に一斉に若葉が吹き出し、森全体が淡い若葉色に染まっていく。そこへ山桜の白が重なると、まるで霞がかかったような、繊細なグラデーションが描き出される。その優美な姿は、パステルカラーの水彩画のようだ。まさに「若葉萌ゆる春」である。やがて緑が深みを増し、濃い緑一色に包まれると夏真っ盛りとなる。それがいつしか黄色へと変化し、11月下旬から12月初旬にかけて紅葉のピークを迎える。黄色や茶色の中に、アクセントのように点在するヤマハゼの赤が実に見事だ。全国的な紅葉の名所には及ばないものの、この晩秋の彩りはそれなりに美しく、三浦半島随一と言っても過言ではない。そして、森はまた静かな冬へと戻っていく。

さて、小網代の森のビューポイントとして、森の圧倒的なスケールを実感できる場所がもう一箇所ある。それは引橋バス停と引橋交差点の間の県道沿いで、木々の切れ目から、天気の良い日には富士山を背景に望むことができる。ここからは角度の関係で小網代の海こそ見えないが、眼下一面に広がる緑の絨毯と、その先に広がる相模湾が織りなす雄大な景色を存分に味わうことができる。 

◇エピローグ

思いつくままに書き綴ってきましたが、小網代は私にとって大切な思い出の場所であると同時に、今もときどき訪れるかけがえのない遊び場でもあります。
これまで小網代の森を巡っては、行政、開発業者、自然保護団体、神奈川県、そして私たち地元住民など、多くの立場の人々がそれぞれの思いを抱えながら、より良い道を模索してきました。地元で暮らす者としては「少しでも生活が便利になってほしい」と願うのが人情であり、諸手を挙げて開発反対というわけでもありません。しかしその一方で、この豊かな自然が破壊されてしまうことにも、やはり強く反対したいという本音があります。
ただ、このホームページの目的は、小網代の開発問題を糾弾することではありません。また、単なる「自然観察」という観点だけでこの森を紹介したいわけでもありません。かつてここにあった歴史と、時代の波の中で変わりゆく現状をありのままに紹介することで、これから小網代がどうあるべきかを、皆さまと一緒に考えるきっかけにしていただければと願っております。
小網代の将来が自分たちの生活に直接かかわってくる地元住民の一人として、これからもこの地の行く末を、愛着と責任を持って注意深く見守っていきたいと考えています。