(歴史)
・明治10年:西南の役に従軍した傷病兵を和歌浦丸、東海丸に乗せて東京へ向けて運搬中、船内でコレラが発生した。急遽、長浦湾に停船させ、箱崎に避病院を建設し患者を収容したが、多くの死者を出した。
これらの死者は当地で荼毘に付され、身寄り不明と思われる48名が対岸の黒アの地に埋葬された。
多くは新撰旅団の兵士であった。
・大正2年:当地が海軍航空隊の用地となったため現在地に移転した。墓石は西南を向けて建てられた。
・昭和2年:墓地は歳月を経るにつれ忘れられ荒廃。更に関東大震災により破壊された。これを憂えた貴族院議員黒田帯刀氏及び海軍航空隊副長堤政夫中佐の斡旋の結果、内務省の指示により神奈川県が修理を行うこととなり、寄付金を募集し、また海軍航空隊の勤労奉仕によって大修理が行われ、昭和2年5月に完成した。
その際、破損していた数基は新調された。
・昭和8年5月9日朝何者かによって墓石が1つ残らず倒され、掘り返されているのが発見されたが、天理教神奈川教会によって整理、復旧された。
・昭和8年10月、横須賀市老兵会及び相陽新聞と昭和新聞の2社が、西南役従軍48士の顕彰碑を建立し、墓前祭を執行、英霊を慰めた。
(注)これまで3名の方の身寄りが判明している。24番の警部補心得片岡茂太氏は、孫の片岡廉氏(神戸在住の退役海軍大尉)が、明治41年、昭和2年に墓参。10番の四等巡査心得大内昌氏は、子孫の大内恭平氏(元銚子市長)が昭和60年以降墓参。7番の警部補心得榊原謙齊氏は、孫の榊原好恭氏(長野県在住)が平成27年5月初墓参。同氏の投稿記事(神奈川新聞、平成27年6月7日)によると「曽祖父の榊原謙齊は旧越後高田藩士で新政府の徴募に応じて警部補見習となり、新撰旅団の小隊長として鹿児島、宮崎方面を転戦〜」とある。