軍曹として、明治28年3月、日清戦争における牛荘作戦を戦い、戦死された石川新之助さんを慰霊・顕彰する碑。牛荘作戦とは日清戦争で唯一の市街戦と言われており、碑文にも街中の狭隘地での戦いの模様が記されている。
碑は、阿治古神社の慰霊塔の背後にひっそりと建てられている。
しかし、篆額は枢密顧問官である鳥尾小彌太中将であり、碑文は明治を代表する漢学者の一人である仙台藩の岡千仭(鹿門)、書は明治期の書家である金井之恭(筆跡は全国150以上の石碑に残されているという)という当代一流の人物が関わっていることが興味深い。
碑高:158p、幅87p、厚さ20p、台石40p
所在:阿治古神社(熱海市網代)
(刻字)
碑正面:「軍曹石川君碑
枢密顧問官陸軍中将從二位勲一等子爵鳥尾小彌太篆額
遼東之役石川君新之助以軍曹戰死牛荘君妻父岡本善造與其女撫遺孤政之助哭曰兵死於戰陣得正而斃者何哭之爲況朝廷恩例優渥孤寡遺属足以生存抑亦榮矣唯不知兒能成長得肖其父否余聞其言惻然銘之曰君伊豆網代人父曰平兵衛母家女丁年撰入東京師團服役四年期満歸邑娶婦襲家爲豫備兵明治甲午清韓事起躍然曰裏屍馬革吾素志也以二等軍曹属十八聯隊爲第二小隊隊長八月航朝鮮轉戰於平壌紅牙塞唐王山毎戰奮闘所向克勝明治乙未三月四日進攻牛荘牛荘互市場敵盡鋭固守君以其隊属左側支隊進援四方屯更属本隊突進巷戰街□狭隘遂中敵丸而斃隊兵踏屍而進敵鋒始挫各隊齊進遂奏大
捷蘇子有言兩軍對持勝負之勢未有所決有一人挺進?先用其鋒於翻然勃然之間是之謂倡君奮闘於隘巷之中所謂倡者而死之爲死最烈矣軍既奏凱収遺骸火之歸燼灰及遺物族人赴會禮葬先域巳而衆人胥謀建碑余與善造有師弟之義書状請銘曰得先生銘以垂後世死猶生也余不忍辭銘之銘曰
凡人有生 誰免其死 而死於兵 稱爲烈士 死得爲烈 可以已矣
明治三十三年四月 仙臺岡千仭撰
勅選議員錦鶏祗候正四位勲三等金井之恭書」