帰去来(大庭神社) |
軍事遺物 |
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大庭神社の釣鐘は太平洋戦争末期に供出されたが、戦後氏子たちの力で昭和29年9月30日に蘇った。 この石碑はこの再建の由来を後世に伝えるために昭和30年9月に建立された。 碑文は当時の藤沢市長金子一郎氏による。 梵鐘供出については金属供出のページを参照のこと。 碑高184cm、幅76cm、厚さ13.5cm、台石15cm 所在:大庭神社(藤沢市) (刻字) 碑正面: 「帰去来 捷槌一打、餘韻嫋々、鎮守の森に鐘聲の響く時、衆人は心耳を浄められ百八 煩悩の絆を断って自由自□の境地に入ると伝えられる。 九月の頃、當神社の氏子相はかり鐘楼と梵鐘とを寄進した。爾来二百二 十余年。鳴り渡る妙音は朝、東の彩雲を驚かし夕。西方の残映を貫き殷々と して大庭の山野に、こだました。幼児が母の懐に抱かれながら眠る時に も目覚める時にも此の音に聞き馴れつゝ成長した。或は終焉に際しての入 相の鐘は頓證菩提の涅槃の雲を導き或は五穀豊穣の祝福を虚空に適満さ せた。氏子達にとりては此の鐘は骨肉の同胞であり□友であったのだ。 時恰も太平洋戰争の末期、敗戰の色濃く日本全土を覆うに至り軍需物資 として此の梵鐘は供出され人々を別離の涙に袖搾らせながら行方も知れ す消え去ったでである。 □戰後、氏子達は當神社の復興に力を傾け茲に新 鐘を鋳造してこれを旧鐘楼に懸吊するに至った。今、其の象形を視、其の音 聲を聴く。衆人の歓喜は蓋し蘇った親しい人に逢うたようなものであろ う。願わくはこれより當神社氏子の福祉の弥々大ならん事を祈り 併せて後人に此の由来を伝う。 昭和三十年九月吉祥日 藤澤市長 金子一郎 撰文書」 裏面: 「昭和二十九年九月十三日建立 梵鐘重量 壹百貫匁 梵鐘鋳造費 金貳拾五萬圓也 建立者 大庭稲荷氏子中 建立發起人 世話人一同」 |