第一海軍技術廠(海軍航空技術廠)

海軍施設

(沿革)
・大正3年:海軍工廠に「飛行機工場」を置く。
・大正14年:海軍技術研究所「航空研究部」発足。
・昭和4年4月8日:海軍工廠に「航空機実験部」を置く。
・昭和5年12月1日:海軍工廠に「航空発動機実験部」を置く。
・昭和7年4月1日:海軍技術研究所航空研究部、海軍工廠飛行機工場、航空機実験部、航空発動機実験部を統合し、「海軍航空廠」開設。
・昭和14年4月1日:特設航空廠との混同を避けるために「海軍航空技術廠」に改称。
・昭和16年4月1日:規模の拡大に伴い、金沢釜利谷に「支廠」開設
・昭和20年2月15日:「第一海軍技術廠」に改称。支廠も「第一海軍技術廠支廠」に改称。
             さらに、支廠のなかの電波、音響部門を独立させ「第二海軍技術廠」を開設。

(概要)
・日本における航空技術の総合的な実験研究機関として開設された。場所は、横須賀市浦郷、横須賀海軍航空隊の隣接地である。
・その組織は、昭和7年に航空廠として開設された時点では、総務部、会計部、医務部のほかに、科学部、飛行機部、発動機部、兵器部、飛行実験部の5作業部を擁していたが、その後、材料部、発着機部、電気部の組織新設や、技術の進歩、用兵上の要求などによる施設、設備の拡張のため、敷地狭小となり、金沢の釜利谷の地に兵器部と爆弾部を主体とした支廠を設けることとなった。
・支廠は、開設当時は、総務部、会計部、医務部のほかに、兵器部、爆弾部の2作業部であったが、その後の新設改変により、最終的には、射撃部、爆撃部、製鋼部、雷撃部、火工部、光学部、計器部、電気部の8作業部となった。
・本廠は、最終的には、科学部、飛行機部、発動機部、噴進部、材料部、発着機部、推進機部、航空医学部の同じく8作業部となった。 なお、発着機部の研究・試作の工場は本廠北方の「室の木工場」におかれた。
・業務分担としては、本廠が航空機の機体や発動機そのものを扱い、支廠が搭載兵器や爆弾の試作、研究、実験を行う。そして実験航空隊の性格をもった横須賀海軍航空隊と密接に連携しながら、日本の航空技術の中心となり、大きな功績を残した。ここで培われた技術は、戦後の日本の発展にも大きく貢献した。
・本廠だけでも、職員、工員合わせて約2万人、支廠を加えると約3万3千人にもなる巨大な施設であり、周辺にはこれらの人々を収容する工員寮や寄宿舎が数多く建設された。また、技術廠の工員を養成するための工員養成所や従業員、家族の診療を行う追浜海軍共済病院などの関連施設も建設された。
・昭和18年頃から空襲対策として、鉈切山や日向山、和田山などに地下壕が掘削され、機械類が運び込まれ、一大地下工場と化した。特に日向山〜鉈切山の地下に造られた地下壕は県の調査で延長約13qという国内最大規模の地下壕である。丘陵上には高角機銃陣地が構築された。
・第一海軍技術廠は終戦直前に改称された名前であるためなじみが薄く、一般的には航空技術廠、通称、「空技廠」と呼ばれる。
・第二海軍技術廠とは、航空関連の第一技術廠とは異なり、電波、音波、音響に関する別箇の実験研究機関である。
・空技廠で開発された主な航空機には、「彗星、銀河、震電、桜花、秋水、橘花」などがある。特に桜花は、秘匿名「○大部品」として開発され、実戦で使用された特攻兵器として悲しい歴史を持つ。

(現状)
・当時は、広大な敷地に様々な形状の、実験研究施設や工場などが立ち並んでいた。戦後、米軍に接収されていたが、昭和35年に、岡村製作所、東邦化学等の民間企業に払い下げられ、追浜工業団地となり現在に至っている。多くの建物はそのまま工場として使用されており、老朽化や企業の入れ替え等により建替えが進んできたとはいえ、まだ当時の建物や構造物などの遺構は数多く残っている。
・現存遺構としては、建築物では、製図工場、電話交換所、図書庫、第一研究所、第四研究所、第六研究所、第四風洞場、高圧・高速風洞場、第一工場、材料庫、第一実験準備場、模型準備場などが残っている。庁舎は最近まで北辰工業鰍フ工場として使用されていたが、残念ながら平成16年に破却された。また、艤装兵器構造力学研究所も平成25年頃破却され、駐車場となっている。会計部の可燃物庫はコンクリート巻き立ての横穴式で5本が鉄製門扉を含めて現存している。
その他の遺構としては、深浦門側のコンクリート塀の一部、高圧風洞場下の石垣、等速実験水槽の一部、行幸記念碑などがある。また、鉈切山などの地下壕も現存している。しかし、これらの遺構も老朽化が激しく、いつ破却されてもおかしくない状況である。
発着機部の室の木工場や夏島地区の建物については、遺構はなにも残っていない。

破却前の庁舎

矢印施設は現存遺構

新旧を比較すると、中央部の丘陵が崩された以外はほとんど地形の変化はないようである。右手の大きな丘陵は貝山である。

現存遺構(建築物)

医務部製図工場(鉄骨鉄筋2階)

総務部電話交換所(煉瓦造2階)

総務部図書庫(鉄筋コンクリート平屋)

科学部第一研究所
(鉄骨煉瓦コンクリート2階)

材料部第四研究所
(鉄骨煉瓦及び木造3階一部4階)

発動機部第六研究所
(鉄骨鉄筋3階一部4階)

科学部第四風洞場
(鉄骨鉄筋コンクリート一部3階)

科学部高圧風洞場
(鉄骨平屋コンクリート一部2階)

科学部高速風洞場
(鉄骨平屋コンクリート一部2階)

発動機部第一工場
(鉄骨鉄筋一部2階)

会計部材料庫(鉄骨2階)

発動機部第一実験準備場
(鉄骨平屋)

科学部模型準備場
(鉄骨鉄筋コンクリート2階)、一部平屋3階)

科学部鍛冶工場
(鉄骨平屋一部2階)

科学部模型工場
(鉄骨平屋一部2階)

第三工作工場

第五工作工場

会計部可燃物庫

その他の遺構

飛行機部艤装兵器構造力学研究所
(破却:鉄骨鉄筋コンクリート3階)

空技廠の塀

等速実験水槽の遺構

防火水槽と電柱

地下壕のひとつ

地下壕に基礎コン

代表的な壕4m×3m

発着機部「室の木工場」

空母や戦艦などの積載する航空機の発射、回収関係の装置を開発した。

現在は、住宅、学校用地となり遺構は全く残っていない。

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