(沿革)
・明治34年1月:無線電信調査委員会(築地)にて無線電信教育開始。
・明治34年11月:教育を水雷術練習所に移す。
・明治36年6月2日:第1回無線電信術練習生教育開始。無線電信教育の嚆矢。
・昭和5年6月1日:水雷学校内に「海軍通信学校」創設。
・昭和9年3月:隣接地に独立校舎完成。
・昭和14年11月:久里浜に移転。
・昭和18年5月:通信兵の大量養成のため「防府海軍通信学校」開設。従来の通信学校は「横須賀海軍通信学校」に改称。
・昭和19年6月1日:電波兵器関係教育のため「横須賀海軍通信学校藤沢分校」開校。9月1日「海軍電測学校」に改称。
・昭和19年月1日:暗号関係教育のため「豊川分校」開校。
・昭和20年7月15日:横須賀海軍通信学校教育中止、閉鎖。海軍工作学校が移転。
(概要)
・最新兵器である無線電信術は、当時の最新兵器であった水雷科の所管とされたため、横須賀の水雷術練習所で教育が行われることになった。
・日露戦争での無線電信の威力が実証され、無線電信教育は強化、充実されていった。昭和5年6月1日に独立した術科学校である「海軍通信学校」が開設された。
しかし、相変わらず、水雷学校内校舎で教育が行われており、名実ともに独立したのは、昭和9年3月17日に水雷学校の隣接地に校舎が新築されてからである。
・その後、増大する無線電信要員に対応するため、久里浜の広大な敷地に移転新築し、終戦直前まで教育が行われた。
・久里浜校舎は、敷地が約4万坪、立ち並ぶ白亜の校舎は東洋一とうたわれた。庁舎は鉄筋3階建て、庁舎裏に、鉄筋3階建ての兵舎が2棟(計3千名収容)、3階建て2棟と木造平屋建て1棟の講堂のほか浴場、酒保、烹炊所、学生舎などが建てられていた。
・また大戦終期には、裏手の丘陵上に電探や高角機銃陣地が、丘陵内部には防空壕が構築された。
(現状)
・田浦時代の通信学校跡地は、現在海上自衛隊第2術科学校として使用されており、当時の遺構は載っていないように思われる。
唯一、道路から見える位置に「海軍通信教育發祥記念碑」が建立されていて、通信学校があったことを偲ばせてくれる。
・久里浜の通信学校の跡地は、戦後、米軍、復員局、保安庁、水産大学(水産大学の久里浜校舎時代には当時の国情による悲惨なエピソードがある)などの使用を経て、警察予備隊(のちの自衛隊)、そして現在陸上自衛隊の久里浜駐屯地として使用されている。自衛隊最古の駐屯地であり、海軍通信学校の歴史を受け継ぎ、陸上自衛隊通信学校が駐屯している。駐屯地内には、歴史館があり、海軍通信学校時代の無線機や生活用品から陸自の装備品など豊富な展示で楽しめる。また、この駐屯地は年数回一般開放しており、地元に親しまれている。
・当時の遺構としては、鉄筋コンクリート造の庁舎および庁舎裏の兵舎2棟が残っている。さら、奥にある木造旧講堂が1棟残っているが老朽化と台風の影響で痛みが酷く、今にも取り壊されそうな状況である。陵威橋と車庫は戦後に建て替えられおり、陵威橋は現在3代目の掛け替え工事が始まっている(2023年6月現在)。なお、通校神社は長安寺に移設され、修理されているが現存している。
現存する庁舎。今も駐屯地本部庁舎として使用。
同
装飾はないが重厚な玄関ホール
庁舎内貴賓室。天皇陛下をお出迎えする部屋
だそうだが、実際に使用されたことはない。
天井が高い庁舎内廊下
庁舎屋外水場
庁舎内展示室にあった当時の配置図。庁舎前
から裏手山裾にかけてアンテナが張られていた
現存兵舎。2棟残る。
2代目車庫
92式特受信機改4
1式空三号隊内無線電話機
この他、当時の無線機器が種々展示されている
ゲートル(巻き脚絆)
防衛食容器(非常用缶詰の
代用品としてて使われた)
奉公袋(入営や戦地に行く際、必需品を
入れた袋)
軍人精神注入棒(いわゆるバッター)
地下道路(地下壕)図:A壕
軍艦旗掲揚柱(庁舎屋上にあったもの)
海軍信号笛
陸軍 九八式砲隊鏡
海軍通信学校跡
(昭和47年11月5日)
甲種飛行予科練習生電信術練成之地
(昭和62年4月)
小平移駐記念
(昭和29年4月)
駐屯記念
(昭和28年)