陸軍墓地

陸軍施設

<概要>
本墓地は、東京湾要塞砲兵連隊の付属墓地であり、連隊の戦病死者の埋葬地である。明治25年の資料に、要塞砲兵第一連隊付属埋葬地として買収の文書があることからこの頃に開設されたものと推測される。
因みに要塞砲兵第一連隊は東京湾要塞の砲台に配備する部隊として明治23年に設置された。下関の第四連隊と共に我が国初の要塞砲兵連隊である。 勿論、戦死者だけでなく平時における事故死者、病死者も葬られた。
現在は「平作陸墓地」という名称、平作公園に隣接するこじんまりした一角が墓地である。通常は施錠され立入禁止である。現在の敷地は大部狭いが、当時は平作公園全体が墓地であったと推測される。敷地の周囲には「陸軍用地」の標石が若干残っている。
慰霊については、地元の衣笠地区連合町内会が、衣笠仏教界の協力のもと、毎年10月に追悼式を行っている。
概要について、横須賀市が設置した説明板があるので、以下転載する。
「平作旧陸軍墓地は、昭和26年4月1日旧軍港市転換法により本市に移管されたものです。ここの墓地には、第1次世界大戦の戦没者23柱が祀られているほか、横須賀重砲兵連隊の戦病死した軍人の遺骨約400柱が祀られているものと伝えられています。 終戦時の混乱と関係者の急な復員のため記録類は逸散し、英霊の遺族も明らかでありません。その後墓地は墓標の折損等もあって荒廃していましたが、昭和39年10月地元各位の協力により散在していた遺骨を集め改葬し、周柵、参道等を整備し、昭和48年には慰霊碑を建立し、英霊の冥福を祈るものであります。」

墓地入口

墓地内部。背の高いものは招魂碑。招魂碑の両脇に花立。

<現況>
旧状は不明であるが、現在は、第一次世界大戦戦死者の合祀(7柱)墓石1基、招魂碑1基、個人墓石22基、木製墓標1基の計25基である。
説明板によると、第1次世界大戦の戦没者23柱のほか横須賀重砲兵連隊の戦病死した軍人の遺骨約400柱が葬られているとあるので、かなり減ったことになる。 昭和39年の改修の際に、墓石が整理されて、招魂碑に合祀したのであろうか。
木製の墓標は、朽ちており文字は不明である。 また、同一人物の墓石が2基存在する。Jと24の阿部捨松さんとMと23の中村淺吉さんである。浦郷の官修墓地でも重複墓石が存在するが、改修の際に、新調したが旧墓石も残してしまったのであろうか。 天下の重砲兵連隊の埋葬地であるのにかかわらず、寂しい現在の姿であり、そこには多くの謎が眠っている。

<墓地平面図>

@(碑正面)
忠誠
陸軍砲兵伍長 勲八等功七級 鈴木彦太郎
同      同      常磐民次郎
同 上等兵  同      海老原末吉
同      同      平林歌太郎
同      同      伊藤與吉
同      同      岡橋周藏
同 一等卒  同      流石孟武     之墓
(裏面) 大正三年八月二十三日獨逸國ニ對シ宣戰ノ大詔渙發師ヲ支那國 山東省ニ出サルルヤ重砲兵第一旅團ヨリ獨立重砲兵第二大隊ヲ 編成シ青嶋ノ攻城ニ參加セシメラル 此七勇士ハ十月初旬大隊ノ勞山灣上陸以來櫛風沐雨克ク困苦欠 乏ニ堪ヘ彈雨ヲ冒し砲煙ヲ潜リ奮戰勇闘能ク其任務ヲ盡セシカ 卒ニ夾連溝ノ陣地ニ於テ壮烈ナル戰死ヲ遂ク 凱旋ニ方リ其遺灰ヲ異域ニ残スニ忍ヒス茲ニ衛戍地ニ奉齎シテ 碑ヲ建テ以テ長ニ其忠烈ヲ表ス
獨立攻城重砲兵第二大隊長 陸軍砲兵中佐 緒方勝一              外将校下士卒一同
  大正三年十二月
*台石は新調されている

A
故陸軍特務曹長勲八等野長瀬幹墓
明治三十年十一月二十日歿

B
故陸軍砲兵少佐従六位勲五等功五級渡邉三四郎之墓
明治三十八年七月七日没

C
陸軍砲兵中尉從七位田頭勉墓
明治三十六年十月二日
實父田頭祐賀建之

D
戦没者招魂碑
昭和四十八年三月建之 
横須賀市長長野正義書

E
陸軍工兵曹長俣野寅治之墓
明治廿六年八月廿八日

*折れたものが、継がれている

F
陸軍砲兵一等軍曹細川勘五郎之墓
明治二十六年三月九日

G
陸軍砲兵ニ等軍曹岡本義男之墓
明治廿五年三月七日歿

H
故陸軍砲兵ニ等卒□□鐡次郎之墓
明治三十五年一月十四日死亡

*二つに折れて、折れた部分は脇に置いてある。

I
陸軍砲兵一等卒中村専吉□□
明治三十四年八月二十四日没

J
陸軍歩兵一等卒阿部捨松之墓
文久三年十月十五日生

K
故陸軍砲兵ニ等卒伊藤惣衛門墓
明治三十一年十月十九日

L
陸軍砲兵ニ等卒山脇赤太郎之墓
明治二十六年一月二十七日

*腐食が激しい

M
陸軍砲兵一等卒中村淺吉之墓
明治三十三年四月十三日死亡

N
陸軍砲兵助卒矢澤良一郎墓
明治三十八年一月十五日死亡
徒歩砲兵第一聯隊

O
陸軍工兵軍曹青木今朝太郎之墓
明治三十二年三月十二日死亡

*真ん中で折れたが、継ぎ方が雑

P
陸軍砲兵伍長中田精之助墓
東京湾要塞砲兵聯隊
明治三十六年七月五日死亡

Q
鈴木庄藏之墓
明治廿五年八月十九日

R
故陸軍砲兵ニ等卒秋元□□之墓
明治三十一年一月二十八日死

S
故陸軍歩兵一等卒小川兼松之墓
明治二十八年一月六日死亡

*唯一、人造石製

21
陸軍縫工大田松治之墓
明治丗一年四月八日

22
故陸軍砲兵一等卒石野□□□
明治二十九年六月四日死去

23
陸軍砲兵一等卒中村淺吉之墓
明治参拾参年四月十三日死亡

*腐食が激しい

24
歩兵一等卒阿部捨松□□
明治廿八年一月廿四日死ス

*腐食激しい

25
木製の墓標

26
花立(左右一対)
奉納 國防婦人会衣笠分會
昭和十一年八月建之

<考察>
横須賀市史軍事編に掲載されている『「平作陸軍墓地埋葬者(判明分)」第一師団経理部横須賀派出所「昭和40年度平作墓地埋葬人名簿」より作成。』 に現況情報を加えたのが以下の表である。
この表から生じる主な謎を下記にまとめてみる。

<埋葬者リスト>

1 第一次世界大戦の戦死者23柱とあるが、@の7柱しか判明しない。残りはどうなったのか。
2 野戦重砲兵第一連隊の17柱が葬られているというが、墓標がない。25の木製墓標がそれなのか。そもそも、野戦重砲兵第一連隊は、大正7年に横須賀で編成されたが、国府台に移転している。日露戦争、日独戦争に出征した第二連隊の間違いではないのか
3 約400柱が葬られていたとされるが、現存するのは明治20年後半から日露戦争の前の平時の病死者でわずかに22柱である。特に日露戦争では多くの戦病死者が出ていたはずだが何故ないのか。また、合祀墓であればそれなりの体裁になるので残る可能性が高いのだが。それとも、日露戦争前の死者のみであったのか。馬門山の海軍墓地も兵卒は明治10年代〜20年代のみの病死や事故死者であるので、そこには同じような理由が存在するのではないか。
4 死因の中で縊死は自殺、変死は事故死であるらしい。残りはほぼ病死であるが、衛戍病院(後の陸軍病院)での病死者である。 というように、現存墓碑は、何故か、戦死ではなくほぼ病死者のみである。
5 Nの矢澤良一郎さんは、日露戦争に出征した徒歩砲兵第一連隊所属であり、没年月日から旅順攻撃中、つまり現存唯一戦時の病死者であろう。因みに砲兵助卒とは、弾丸や装薬の運搬など雑役に従事する卒である。

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