(概要)
重砲兵学校の前身は、明治22年の「要塞砲兵幹部練習所」である。東京湾要塞など要塞を守備する要塞砲兵隊の幹部を養成するためのもので、本部が東京、生徒中隊が千葉に置かれたが、すぐに浦賀の海軍屯営跡に移転した。明治29年には、教育内容を拡充し、名称を「陸軍要塞砲兵射撃学校」と改称し、明治31年、現在の馬堀の地に新築移転した。その後、要塞砲だけでなく野戦重砲も所管することとなり、明治41年に「陸軍重砲兵射撃学校」と改称。しかし、大正18年に野戦重砲兵教育を「陸軍野戦砲兵学校:千葉県」に移管し、名称も「陸軍重砲兵学校」と改称し、主として要塞重砲と攻城重砲の教育研究を行うことになり、終戦まで継続した。大正11年には海軍より移管された砲塔砲台の教育研究、また潜水艦射撃のための水中聴測の研究教育なども行われた。
付属施設としては、要塞砲の実射教育用として小原台演習砲台(28糎榴弾砲、24糎加農砲)、花立台演習砲台(45式15糎加農砲)及び攻守城砲用として、富士分教場(昭和18年開設、演習場は富士演習場)を持っていた。砲塔砲台演習は千代ケ崎砲台(30糎加農砲、大正13年据付)で実施した。また、水中聴測のために三保分教場を昭和19年に開設した。