東京湾要塞司令部

陸軍施設

(概要)
東京湾要塞の司令部として要塞の運用と維持管理を担当したセクションである。 戦時には司令部として機能し、平時には要塞防御計画の策定や要塞地帯の機密保持、砲台施設や兵器などの維持管理を行った。
日清戦争時には司令部はなく、砲台ごとに戦備を実施した。そのため、急きょ、臨時東京湾守備隊司令部を開設した。戦争終結時に、要塞司令部条例が定められ、4月に東京湾要塞と下関要塞にそれぞれ要塞司令部が開設された 因みに、第一条に「永久ノ防御工事ヲ以テ守備スル地ヲ要塞ト称シ、各要塞ニハ其地名ヲ冠シ其要塞ト称ス」とあり、そのため東京湾要塞司令部という名称となった。
関東大震災では建物破損の被害を受けた。深田にあった築城部横須賀支部は震災により全焼したため、構内に移転してきた。
太平洋戦争末期には、三浦半島の防衛は横須賀海軍鎮守府が担任することになり、戦闘司令部は房総(那古)に移駐し、そこで終戦を迎えた。
戦後は、外地からの引揚患者収容のために、国立病院となった陸軍病院の分院(中里分院)として使用された。 引揚患者受け入れ終了後は、一般患者の診療を開始。その後、便の良い分院が本院となり、陸軍病院であった本院は昭和41年に廃止された。
その後は、ながらく国立横須賀病院として診療を続けてきたが、平成14年(2002年)国立病院の廃止によって横須賀市に移管され「横須賀市立うわまち病院」となった。 しかし、施設老朽化のため、令和7年の予定で久里浜に移転する計画である。

(沿革)
・明治27年7月 臨時東京湾守備隊司令部を第一師団司令部内に開設
・明治27年7月 臨時東京湾守備隊司令部を要塞砲兵第一連隊内に移設
・明治28年4月 東京湾要塞司令部を要塞砲兵第一連隊内に開設
・明治29年4月 京湾要塞司令部、中里(現上町)新庁舎に移転
・昭和20年  房総那古に戦闘司令部を移駐

(構内施設)
正門を入ると正面に本部庁舎があり、隣には事務室、前面には馬場が設けられていた。 奥には倉庫群があり、更に切通しを抜けた先は土塁で囲まれた弾薬庫エリアであった。しかし、大正11年8月に構内の弾薬全部を矢の津弾薬庫に移したと記録にあるので、それ以降は弾薬保管はなかったと考えられる。
なお、構内図にはなく、写真には写っている馬場の場所の建物は、築城部横須賀支部(築城本部横須賀出張所)と考えている。

(遺構)
横須賀市立うわまち病院の敷地がそのまま跡地である。小丘陵に囲まれた谷戸の地形はそのままで、往時を彷彿とさせるが、建物や構造物はほとんど残っていない。唯一、周りの丘陵上に残る陸軍の敷地境界標石が、かって要塞司令部があったことを伝えてくれる。

正門付近。現在も病院入口

本部庁舎のあたりは、看護学校

弾薬庫エリアへの切通し。コンクリート被覆されている

弾薬庫エリア。現在は職員宿舎エリア

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