安良里港は、陸地深くに入江が入り込んだ天然の良港であり、北西岸に震洋隊の基地が造られていた。
資料からは一艇隊分の横穴式格納壕(21本)が構築されていたようであるが、実際の部隊の進出はなかったようである。跡地の多くが民有地であるため、遺構の確認ができないことと、埋立造成などにより消滅した箇所もあり、確認できた壕は3本のみである。湾奥部に横穴式地下壕が1本確認できたが、その目的は不明である。
なお、安良里地区では昭和30年頃までいるか漁が行われていたことで、3基のいるか供養塔が残っている。
安良里港は、陸地深くに入江が入り込んだ天然の良港であり、北西岸に震洋隊の基地が造られていた。
資料からは一艇隊分の横穴式格納壕(21本)が構築されていたようであるが、実際の部隊の進出はなかったようである。跡地の多くが民有地であるため、遺構の確認ができないことと、埋立造成などにより消滅した箇所もあり、確認できた壕は3本のみである。湾奥部に横穴式地下壕が1本確認できたが、その目的は不明である。
なお、安良里地区では昭和30年頃までいるか漁が行われていたことで、3基のいるか供養塔が残っている。
基地エリアの現況
現存する3本の壕の配置図
@壕開口部。内部でA壕と連結されている。
@壕内部の連結部分
A壕開口部。延長約17m
A壕内部の連結部分
B壕は単独壕。延長約15m
湾奥部のC壕。手前左手に部屋が造られている
C壕平面図。延長約15m
いるか供養塔(3基のうち2基)
左手は昭和24年、右手は明治15年建立。
右供養塔の碑文を解説板から転載する。
「海豚供養塔碑文:
明治十五年壬午の春、余請いに応じて、豆州那賀郡安良里村龍泉寺に赴きて、菩薩
戒会を修授す。
これに先立つ一月十九日、この村に大漁有り。その実際を聞くに、イルカの大小六百
余尾。海門の外に輻湊す。これにおいて一村の漁人相集い、たちまちにして小舟十数
隻を馳せて、それを海門の内に駆り、港口に竹網を張り、ことごとくこれを捕う。大な
るものは二丈、小なる者も九尺を下らず。本日より二月十日に至る二十三日の間、港
内にこれを養い、魚商の来たるを待ちてこれを売り、代価およそ一万余円を収得して、
おおいに村民を賑わすと言えり。
開会に先立つ一日、綱組当番のなにがし有りて、龍泉の長老を介し来りて相見し、そ
の事実を説き、更に乞う。イルカの為に供養塔を建て、甘露門を開かんことを願う。
余賛成して曰く、明日勝会を開くに、汝、漁人隊において人を選び、イルカの為に戒
徒となり、懺悔礼拝を行ずれば、即ち最上の追善なり。漁人もまた必ず滅罪の益あ
らん。なにがし謹みて趣を諾し去り、余の命に従いて浜方五人組の内にて人を撰し、
戒徒と作して、毎日出頭し懺悔礼拝す。遂に塔下に戒脈を埋納して、今、井山一会
の浄侶を宰して焼香、無遮会を修す。
ちなみに、漫に小伽陀一首をねんじて、すなわちイルカの供養に充つる者なり。
伽陀に曰く、善なるかな大イルカ 安良里に輻湊し 解脱門に結縁す 六百有余尾
時に明治十五年壬午の春四月二十七日 円覚寺管長 権大教正 今北洪川 謹誌」