陸軍砲台と本土決戦基地

砲台と本土決戦基地

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要塞とは、辞典によると「国防上重要な場所に設けられた軍事的な防備施設」と説明されています。 具体的には、多数の砲台を効果的に分散配置し、攻めてくる敵を撃退するために作られた施設です。
・その構成は、砲台とその付属施設である観測所、電源施設、兵舎、弾薬庫などから構築され、敵の攻撃に耐えられるように強固で、また敵に発見されないように遮蔽、偽装が施されます。
・江戸時代後期、異国船を撃退するために東京湾を囲む三浦半島、房総半島に台場が築かれましたが、これが日本における要塞の嚆矢となります。幕府から政権を受け継いだ明治新政府は、外国からの侵略に備えて台場にかわり、新たに西洋式砲台を築き東京湾防備に力を注ぎました。 これが東京湾要塞であり昭和20年の敗戦まで存続しました。
本サイトは、明治から大正にかけて東京湾を囲むように三浦半島、房総半島に築かれた陸軍砲台および太平洋戦争末期に本土決戦に向けて海軍によって築かれた洞窟陣地、防空砲台、特攻基地等の防衛拠点について調査し、その現況を紹介します。
 *防衛拠点以外の陸海軍の軍事施設等は、「東京湾要塞の軍事施設」をご覧ください。

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東京湾要塞の沿革
(明治〜大正期)

明治新政府は、帝都東京、商港横浜、軍港横須賀の防備の要として、明治13年以降、新たに観音崎地区をはじめ、走水、猿島、千代ケ崎、東京湾上(海堡)などの要所に 最新式の砲台を建設してゆきました。 これが、東京湾要塞でありますが、明治32年に制定された要塞地帯法により、住民は不便を強いられました。
東京湾要塞は、日露戦争までに一応の完成を見ましたが、国際情勢の変化や兵器の発達等により見直しが行われ、追い討ちをかけるように関東大震災が起り、要塞はほぼ壊滅状態となってしまいました。
直ちに復旧が行われましたが明治期の砲台の多くは 除籍、廃止となり、
新たに剣崎、城ヶ島砲台などが建設されました。千代ケ崎など軍縮条約によって廃艦となった軍艦の砲塔を利用した砲台も現われました。 明治期の砲台は現在でも、観音崎、走水、夏島、猿島などに、その貴重な遺構を残しています。特に、観音崎第一砲台、第二砲台は、日本で初めて建設された西洋式砲台として大変貴重な遺構であり、猿島、千代ケ崎砲台とともに、文化財として、復元、保存が切に望まれます。
砲台年表

(昭和〜太平洋戦争期)

このような変遷を辿った東京湾要塞は、昭和初期には内容を一新、房総半島南部の砲台と 合わせ縦深な防御網を構築しました。
しかし、大戦末期には三浦半島の防衛は横須賀鎮守府の担任となり、敵の本土上陸に備えて、 水際決戦の方針 のもと海軍は沿岸各地にカノン砲を備えた 洞窟砲台 や上陸予想地点には狙撃用の洞窟陣地を築きました。
砂浜には厚いコンクリートで覆われたトーチカが築かれ、 沿岸には特攻用モーターボート(震洋)、特殊潜航艇( 海龍、回天)、人間機雷( 伏龍)といった水上・水中特攻兵器の基地が設けられました。 更に、空に対する備えとして防空砲台( 高角砲台、機銃砲台 )が要所に構築されました。
防空砲台は敵機の襲来に対して実際に火を吹きましたが、洞窟砲台、特攻基地等は幸いにも、本土決戦が回避されたため、実戦に使用されることはありませんでした。 この敗戦をもって東京湾要塞の歴史の幕は閉じられたのです。

マリンスポーツやバーベキューなど四季を通じて思い思いのレジャーを楽しむ人々。東京湾岸の海辺は、首都圏のマリンレジャーのメッカです。 その海岸の背後にはポッカリと口を開けている洞窟があります。この中のどれほどの人が、この洞窟が本土決戦陣地であり、一歩間違えば沖縄戦と同じ悲惨な状況がこの三浦半島でも起こり得た事実を知っているでしょうか。
明治初期、近代国家の威信をかけて構築された砲台、そして時代が下り一億玉砕の掛け声のもと、その最前線として決死の覚悟で建設された本土決戦用の沿岸築城や特攻基地群。
戦後、70年以上が経過し、開発や不要なものとして埋められ破壊され姿を消しつつあります。資料も少なく、世の中からその存在が忘れ去られようとしている現在、歴史の生き証人として後世に伝えていきたいと考えます。

◆お願い◆
内容の充実を図っていきたい考えておりますが、当時のことを知る人は年々少なくなっています。
写真や資料などをお持ちの方、また砲台等の具体的な位置や内容などの情報をお持ちの方、是非ご一報下さい。また誤り等もございましたらご指摘下さい。ご協力よろしくお願いします。