明治新政府は、帝都東京、商港横浜、軍港横須賀の防備の要として、明治13年以降、新たに観音崎地区をはじめ、走水、猿島、千代ケ崎、東京湾上(海堡)などの要所に
最新式の砲台を建設してゆきました。
これが、東京湾要塞でありますが、明治32年に制定された要塞地帯法により、住民は不便を強いられました。
東京湾要塞は、日露戦争までに一応の完成を見ましたが、国際情勢の変化や兵器の発達等により見直しが行われ、追い討ちをかけるように関東大震災が起り、要塞はほぼ壊滅状態となってしまいました。
直ちに復旧が行われましたが明治期の砲台の多くは
除籍、廃止となり、
新たに剣崎、城ヶ島砲台などが建設されました。千代ケ崎など軍縮条約によって廃艦となった軍艦の砲塔を利用した砲台も現われました。
明治期の砲台は現在でも、観音崎、走水、夏島、猿島などに、その貴重な遺構を残しています。特に、観音崎第一砲台、第二砲台は、日本で初めて建設された西洋式砲台として大変貴重な遺構であり、猿島、千代ケ崎砲台とともに、文化財として、復元、保存が切に望まれます。
☆砲台年表