深山第一砲台

<沿革>
・明治25年7月:起工
・明治30年9月:竣工
・明治31年9月:28p榴弾砲据付
・大正2年:廃止予定
・大正3年:備砲撤去
・昭和7年3月:除籍
・28p榴弾砲6門、15p綫臼砲4門

<概要・構造>
 由良要塞に属し、紀伊半島側に第二砲台とともに最初に築造された砲台。目的は、友ヶ島の北方海面を射撃することでこの方面の敵の上陸と攻撃を妨害すること。同じように南方海面を担当するのが第二砲台であった。 そのため、陸正面防御として北東側に堡塁が併設されている。備砲は28p榴弾砲6門。首線は北北西。射界は360度。
ほぼ東西(西に約25度傾く)に28p榴弾砲各2門を備える砲座が三つ並ぶ。砲座間隔は25mほど。胸墻は高さ4mほどで中央に階段が設けられている。砲座背面には砲座を結ぶ交通路がはしり、交通路の背面には高さ4mほどの背墻が設けられている。砲座間の横墻はこの背墻まで伸びているため、この部分の交通路は隧道になっている。横墻の地下には砲側弾薬庫が2室設けられ2方向から階段でアクセスする。観測所は両翼にある。地下構造物はアーチ部を含めすべてレンガ造であり、イギリス積で構築されている。左翼端は埋没しているが、構造から見て地下弾薬庫が設けられていたことが推測できる。
砲台の入口は右翼端にあり南から軍道が伸びている。入口手前の軍道沿いにはいくつか平場が設けられているので、ここに彈廠や厠などの付属施設があったことが推測される。15p綫臼砲や機関砲が備えられた堡塁部分については、遺構から別方向を向いた砲座が2か所(各2門)と砲側弾薬庫が1か所あることがわかる。
*平面図の赤線部分は地下構造物である。

<現状>
瀬戸内海国立公園の加太園地として国が管理保全をしている。砲座、横墻、胸墻、掩蔽部などの遺構は、堡塁部分も含めほぼ原型を保っていると考えられる。特に、横墻地下の砲側弾薬庫や右翼の4連地下掩蔽部のレンガ構造物は圧巻である。しかし、左翼端が埋没しており、観測所や地下構造物の姿は不明である。軍道沿いにあったと推測される建物等も現存していない。
地下構造物を含め特に立入禁止部分はなく、どこでも自由に見学できる。暗い部分は悪戯や落書きをされる惧れがあるのだが、立ち入り禁止にはせず、書かれれば消す対応であるのが素晴らしい。ただ、説明板などがほとんどないため、事前知識がないと詳しいことはわからない。

28p榴弾砲台

第二砲座。弾室が造られていないのが興味深い

第二砲座と横墻を穿つ隧道

第二、第三砲座間の隧道。弾薬への階段

横墻地下の砲側弾薬庫

弾薬庫内から入口。窓が大きい

弾薬庫奥壁

右翼の棲息掩蔽部。3連の左端は弾薬庫

同左。右手の2室は内部で連絡している。

同左。折れている右端は観測所付属室

右翼観測所

観測所手前の小隊長位置

左翼観測所

砲台の入口部分は広場状になっている。

手前の軍道沿いには付属施設の跡が残る。

砲台入口に残る井戸跡と背墻に登る階段

堡塁部分

堡塁入口

奥の砲座。15p臼砲を2門据付

砲側弾薬庫

砲側弾薬庫内部、奥行10mと細長い

濾過式井地。井戸の直径は60p

脇に飲料水路の標石がある

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