男良谷砲台

<沿革>
・明治35年11月:起工
・明治37年08月:竣工
・昭和8年:廃止
・斯加式30口径12p速射カノン4門

<概要・構造>
男良谷(おらだに)砲台。紀淡海峡の防御工事は明治22年から始まったが、明治23年に裁可された紀淡海峡防御法での男良谷砲台の目的は「地の瀬戸を射撃し、以て敵艦艇の同瀬戸を通過せんとするを妨害す」とされ、24pカノン4門で計画されていた。しかし、明治28年6月、海軍の水雷発射場計画により不要とされ、いったん計画から削除されたのだが、明治31年、海軍の水雷発射場の防御のために、目的と兵備を変更して建設されることになった。 即ち、「男良谷の両側に設備する水雷発射場を破壊せんとする敵の企図を妨害し、兼ねて地の瀬戸を通過せんとする敵の艦艇を射撃するにあり」。そのため、備砲は24pカノン4門から12p速射カノン4門に変更して建設された。因みに海軍の水雷発射場は西側のみに建設された。 日露戦争以降の要塞整理、再整理事業の過程のなか、昭和8年の要塞再整理修正計画で廃止となった。
海岸沿いの標高15mという低地に石材とコンクリートで造られた砲台で、レンガは使われていない。砲座は二つで各2門の速射カノンが設置されていた。第一砲座の右と第二砲座との間に横墻が築かれ、その地下に砲側弾薬庫が設けられている。第二砲座の左手は地山である。弾薬庫から砲座へは坂路が付けられている。胸墻もコンクリート造で、4つの弾室もコンクリート造であるが、側面の弾室は石造である。また、坂路を登り切った下にも弾室が3基造られている。観測所は設けられていない。 右翼には、機関砲2門を設置したと推測される砲座が設けられている。
*平面図の赤線部分は地下構造物である。

<現状>
瀬戸内海国立公園の加太園地として国が管理保全をしている。とはいえ、深山第一砲台のようにしっかり手入れはされておらず、砲座にも草木が茂っている状態である。
林の中に現れるこじんまりとした砲台で、現在も砲座、横墻、胸墻、弾薬庫などの遺構がほぼ原型を保っている。胸墻の前面には草木が生い茂って見通しがきかないが、すぐ前は海である。背後には井戸や建物の基礎などいくつかの遺構が残されているが、隣にあった海軍の水雷発射場(男良谷水雷台場)の施設の跡である。

右翼弾薬庫。コンクリートを切石で覆っている。

同左内部。奥壁は曲面である。奥行4.5m

砲座間の弾薬庫

第二砲座の坂路

第二砲座。コンクリートの砲床も残る

右翼の機関砲砲座への階段

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