館山海軍航空隊(館山海軍航空基地)

海軍施設
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(歴史と概要)
・昭和5年6月1日に開隊。大正5年横須賀、大正9年佐世保、大正11年霞ケ浦、大村に続く、5番目と言う歴史ある航空隊。
・海軍初の航空隊である横須賀航空隊は実戦、教育、研究とすべての機能を持っていたが、航空戦力の拡大にあわせ、機能を分散させていった。即ち、西日本の拠点として佐世保航空隊が水上機の作戦基地として開隊。続いて教育・訓練基地として東に霞ケ浦、西に大村航空隊が開隊。そして、東日本の実戦基地として館山航空隊が開隊したのである。その結果、横須賀航空隊は昭和7年、隣接地に設置された海軍航空廠と連携した新型機の実用実験、各機種の戦技研究に特化することになった。
・基地は、関東大震災で隆起し浅瀬となった鷹ノ島と沖ノ島の間の海面を、昭和4年から埋め立てて造成した。 所属は横須賀鎮守府所属であり、首都・軍港防衛の実戦航空隊として、最新の戦闘機、攻撃機、水上機が配備された。特に海軍は初期に水上機を重視していたため、大規模な滑走台を有しているのが特徴である。
・基地の周りには、兵器や物資の補給のために第二航空廠の補給工場横須賀軍需部の支庫などの施設が、また南西には洲ノ埼海軍航空隊、南には館山海軍砲術学校が設置されるなど海軍施設が集積し、館山は横須賀に次ぐ海軍のまちと化していった。 大戦末期には、これらの陸上施設は空襲対策として地下化が進められ、多くの地下壕や航空機を護るための掩体壕が造られた。更に、防空砲台や、敵の上陸に備えた水際陣地も構築されていたと推測される。
・基地跡は、米軍の接収後、安房水産高校(昭和23年6月30日〜昭和31年5月15日)などに使用されたが、昭和28年からは海上自衛隊(当初は警備隊)の館山航空基地として現在に至っている。
(現状と遺構)
基地の大部分は、海上自衛隊の館山航空基地として使われている。建物は本部庁舎と兵舎と2棟が現存していたが、本部庁舎は平成27年に解体された。境界壁や裏門は当時のものと考えている。北東端の水上機滑走路の一部は民間造船所等に利用されている。沖ノ島、鷹ノ島ともに公園として開放されている。鷹ノ島にあった軍需部館山支庫の燃料タンクも近年撤去された。滑走路の南と南西に向って造られていた掩体への誘導路は消滅し、畑、荒れ地となり、多数造られていた航空機掩体は2か所のみ残る。南の大賀にあったと思われる海軍電探の状況は不明である。 地下壕は、赤山、沖ノ島、鷹ノ島に現存しており、特に赤山は赤山地下壕と称して一部が有料で公開されている。丘陵部には横穴式地下壕が掘削されたが、横穴が造れないところには半地下式防空壕が造られた。また、敵の上陸に備えた狙撃用坑道陣地が一個所現存している。また、基地の用水として造られた海軍水道の水源地及び浄水場も現存し、近年まで宮城浄水場として使われていた。

昭和23年米軍撮影空中写真。戦後2年経過しているため、滑走路や誘導路は畑に変貌している。中央右手に航空隊の建物が集まっている。 令和2年撮影。地形の変化はほとんど見られない。館山航空基地はヘリコプター部隊のため滑走路ではなくヘリポートが造られている。

遺構
平成27年まで残っていた本部庁舎 旧庁舎の壁面彫刻
新庁舎に取り付けられた旧庁舎同様の腕木
第二兵舎
境界壁。連続する装飾に海軍のデザイン意識を見ることが出来る。
裏門(通用門)
燃料庫(撤去)。内部には燃料タンク6基格納
小型掩体壕(幅15m×奥行11m) 大型掩体壕(幅18m×奥行23m)
赤山地下壕入口
半地下式防空壕。コンクリート製で、内部は7m×4mの大型 海軍水道の止水栓蓋
航空神社跡(現、鷹之島辨天閣) 城山から望む航空隊基地。右の島が鷹ノ島、中央の島が沖ノ島、左手の丘陵が赤山
新庁舎建設にあたって移設された
国旗掲揚台
大戦末期に造られた通信施設と言われる残骸 同左。内法3.3m四方、高さ2.8mのコンクリート小屋
小型貯水施設(防火用水) 溢れた水は崖から排水される 全体模式図
大型貯水・配水池 排水口 全体模式図