横須賀陸軍病院

陸軍施設
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沿革:明治23年11月、要塞砲兵第1連隊が不入斗に設置された際に開設された医務室が創始である。 翌年、現在地に移り東京予備病院横須賀分院(別名要塞病院)となり、明治40年、横須賀衛戍病院、昭和11年7月に横須賀陸軍病院と改称された。昭和17年に病棟を3棟増設し、計6棟になるが、平地が少なくなったため、北側崖下を整地し庭園を一誠園、祠を一誠神社とした。大戦末期の昭和20年2月に走水に分院開院、5月には横浜に分院を開院した。
戦後は、外地からの復員傷病兵を収容するため、中里にあった要塞司令部を分院とし、病床数は、本院250、走水分院200、中里分院500の計950床を用意した。同年12月には厚生省所管となり、国立横須賀病院と改称され54年にわたる陸軍病院の歴史を閉じた。一方、昭和22年2月には、中里分院で一般患者の診療を始め、昭和41年4月、本院を全て中里分院に移した。建物は取り払われ関東学院グラウンドとなる。その後、昭和63年にサッカー場が完成し、はまゆう公園として現在に至る。
現在は、サッカー場となり病院の面影は全く残っていないが、かっての庭園である一誠園の碑と一誠神社の石柱が残されている。また、敷地境には陸軍用地の標石が多く残っている。        

病院の配置。米軍撮影の空中
写真(昭和21年撮影)
陸軍病院正門 現在のサッカー場。奥の崖には
大戦末期に患者を200名収容でき
る地下病院が掘られていた。
片隅に残る一誠園碑と一誠神社
の石柱
陸軍病院の遺構として敷地の周囲に「陸軍用地」と刻まれた標柱が10本ばかり残っている。