(歴史と概要)
・昭和18年6月1日に開隊した練習航空隊で、それまで横空で行われていた射爆兵器の整備教育を担当した。昭和19年3月には横須賀分遣隊を設置し、雷爆兵器の整備教育も担当したが、昭和20年3月1日に分遣隊は廃止され、田浦航空隊として独立した。因みに、横須賀分遣隊は横空構内にあった。
・教育内容は、射爆兵器(航空機用機銃、爆弾)、雷爆兵器(航空魚雷)、光学兵器(射撃照準器)、無線兵器(航空無線機)、写真兵器(偵察用写真機)の取扱やその整備であり、それぞれ班に分かれて教育が行われた。
・昭和19年に入ると空襲対策として防空壕堀りが教育と並行して行われるようになり、昭和20年には激しい空襲を避けるために周辺地域への疎開が始まった。建物も間引き・解体され、兵舎は疎開先で再建されたという。
・そして、戦局押し迫った昭和20年6月、教育は中止され本土決戦態勢に移行した。
・館山海軍航空隊の南手の丘陵部との間の約10万坪の敷地に、本部庁舎、士官宿舎、各種講堂、武道場、兵舎、烹炊所、浴場などの数多くの建物のほか、練兵場、防空壕などの施設を有し、最盛期には職員、練習生など合わせて1万人を超える人員を擁していたという。
(現状と遺構)
・跡地は、住宅と畑に変貌しており、もちろん当時の建物は残っていないが、いくつか残る遺構が「洲ノ空」の存在を今に伝えている。
・まず、洲ノ空の正門付近に建っている「館山海上技術学校」の裏門には、かっての練習生たちが建立した「洲ノ崎海軍航空隊の碑」がある。
特徴的なのは、航空機用の機銃を調整するための射撃場跡で、今もコンクリート巻の射朶と弾痕の跡が残る。また、館山自動車学校に隣接する池は、元武道館であった場所だが空爆による大穴に水が溜まって池になったということである。そのほか、館山市がまとめた「戦争遺跡保存活用方策に関する調査研究」報告書によると、本部庁舎跡(一部レンガ跡)、防火用水、御真影奉安所など細かい遺構がかなり残っている。特に、校内に残る小丘陵天神山(双子山)付近には遺構が集中している。
・地下壕は、構内はもちろん、南手の丘陵部に横穴式防空壕が多数残されている。「かにた婦人の村」内には、昭和19年12月竣工の戦闘指揮所壕が残る。見学はできないが、壕内には「戦闘指揮所」や「作戦室」という額が残されているという。畑中にはコンクリート造半地下式の小型退避壕が複数現存する。
昭和23年米軍撮影空中写真。中央の大きな建物が並んでいる
エリアが洲ノ埼航空隊である。大戦末期の空襲対策で、建物
の半分位は解体された。川向うが館空、右手には航空機避難
用の誘導路が残る。
令和2年撮影。地形の変化はほとんど見られないが、跡地は
住宅と畑地に変貌している。中央の緑が天神山である。
射撃場平面図。戦闘機から直接機銃を発射
して調整した。
幅約6mの射朶が5つ並ぶ
コンクリート巻で内部に砂が詰められている
射朶に間の壁に残る弾痕
本部庁舎跡のレンガ
本部庁舎跡>
防火用水跡
掲揚台
武道場跡に残る池
東峰上の機銃掩体、2か所残る
西峰上の階段跡
西峰上の基礎跡
横穴が掘れない場所には、このような出入口
2方向の半地下式退避壕が構築されていた。
6基現存。
@番壕
A番壕
B番壕
C番壕
D番壕
E番壕
天井には1〜2か所の通気孔がある。
主計課の疎開先建物