横須賀海軍軍需部久里浜倉庫

海軍施設
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JR久里浜駅の西から南へと広がる広大な軍需部倉庫地帯。北側が二課・四課倉庫地帯で、南側が一課倉庫地帯である。
久里浜地区には昭和14年に海軍通信学校が開校したのを皮切りに工作学校、機雷学校など相次いで設立されたが、この倉庫地帯もその頃に建設されたものと推測している。因みに一課は兵器、二課は需品、四課は被服の倉庫である。
昭和14年には、久里浜港の軍港化が計画され、横須賀軍港の副港として、小型艦艇の根拠地及び軍需物資の補給拠点となるべく整備が進められていたが、完成をまたず終戦となってしまった。 交通機関の整備もあわせて行われ、昭和17年には京急線(当時は東急湘南線)が久里浜まで延長。JR線(当時は省線)は、昭和19年に久里浜まで延長した。久里浜駅手前から引込線(久里浜臨港線)がこの倉庫地帯を経由して久里浜港軍需部岸壁まで引かれた。 道路は、昭和18年に大津から久里浜海岸までの軍用国道34号線が開通した。
現在、これらの倉庫地帯は、住宅、公共施設や工場地帯へと様変わりし、遺構はほとんど残っておらず、軍需部倉庫があった事実さえ忘れ去られようとしている。
(第二課、四課地帯)
倉庫の間を貫いて臨港線が走っている。各倉庫に引き込まれていたものと推測される。空襲対策として戦中に需品倉庫、衣糧倉庫数棟が解体されている。 現在、第八衣糧倉庫が久里浜幼稚園の園舎として使われ残ってるほかは、何の遺構も残っていない。跡地は、主に久里浜中学校、久里浜幼稚園、市営住宅などの公共施設として使われているほかは、一般住宅地に変貌している。正門は現在の久里浜中の正門あたりにあった。
米軍撮影の空中写真(昭和22年撮影)  

右第1需品庫、左第一衣糧庫跡の
付近。道路には臨港線の軌道が。
左手緑に旧衣糧庫、右手には需品
庫が並んでいた。
今も残る第八衣糧庫。 同左。洋小屋の小屋組みは建設
当初のまま。

(第一課地帯)
敷地には、大きな倉庫が整然と立ち並んでいたが、大戦末期には防空対策として一部の倉庫が間引き(破却)された。南の丘陵山裾には防空壕が掘られた。倉庫内には、主に機雷、爆雷とその関連物資が多数貯蔵されていた。敷地内には、横須賀海軍工廠造兵部の火工工場久里浜作業場も設けられていた。
臨港線終点の軍需部岸壁には起重機も設置されており、軍需物資の補給拠点としての整備が進んでいた。
戦後は、米軍に接収され、CPC倉庫としてしばらくの間接収されたままであったが、昭和47年漸く返還され、この広大な敷地には、神明小中学校や久里浜緑地、神明公園、南清掃工場等の公共施設をはじめ、ビクターや日清オイリオなどの工場が立ち並び、大きく様変わりしている。
現在、当時の遺構は残っていないと思われるなか、防空壕(入口は塞がれている)と敷地境界を示す海軍用地標石(丘陵部のみ)が残っており、往時を偲ばせている。蛇足ながら、エアーライフル場は、この防空壕を利用して造られた施設である。


変遷を見てみると、戦後30年間ほどは、そのまま倉庫が残されていたが、その後の30年で一気に様変わりしてしまった様子が分かる。丘陵部は、幸いなことに緑地として保全された。