空襲遺構

軍事遺物

太平洋戦争末期、日本各地は米軍による空襲に苦しめられていた。 いわゆる本土空襲である。東京湾要塞地帯周辺では、横須賀を始めとして、横浜、藤沢、平塚、鎌倉などが被害を受けている。現在に残る空襲の跡を紹介する。

<横浜市>

●横浜大空襲
・直撃弾により破損した慰霊碑
●富岡空襲
昭和20年5月29日の横浜大空襲に続いて行われた、6月10日の富岡地区の空襲(横浜南部空襲また富岡空襲とも)でも、多くの被害を被った。この附近には日本飛行機や大日本兵器、日本航空機などの軍需工場や横浜海軍航空隊などの海軍施設があったためである。
特に湘南富岡駅(現京急富岡駅)周辺に落ちた爆弾で、トンネル内に避難していた人など40人近くの方が亡くなったという。現在、この時の犠牲者の慰霊碑が持明院慶珊寺の二か所に建立されている。
この時、三渓園にも爆弾が落ち、いくつかの建物が損傷を受けた。楠公社にも爆弾が落ち、社殿と楠公像が失われ、狛犬も被害を受けた。右手の阿形の狛犬は耳が欠けた程度であるが、左手の吽形の狛犬は頭部が大きく欠けてしまった。

@富岡駅ガードトンネル
このトンネルの両側に爆弾が落ちて、中に避難した方々はほとんど亡くなったという。証言では、「あちこちに頭や手足が飛び散り、口では言い表せない悲惨な状況であった」。

A空襲で損傷した狛犬(三渓園)
吽形狛犬。頭部を失ったまま存置されている。

B空襲で損傷した狛犬(三渓園)
社殿右手の阿形狛犬。左耳が少し欠けている。

<平塚市>

神奈川県警察史によると、昭和20年2月16日〜17日、4月12日、7月16日〜17日、7月28日、7月30日、8月13日の6回行われた。
このうち、7月16日から17日にかけて行われたものが平塚大空襲と呼ばれ、最も被害が大きかった。 平塚市のHPによると、「16日午後11時32分から17日の午前1時12分までの間にB29爆撃機132機により実施され、投下された焼夷弾は全部で44万7716本、この数は、全国で八王子、富山に次ぐ3番目の数になり、死者328人、重軽傷者268人、罹災戸数7678戸の被害を受けた。」

@空襲で損傷した墓石(乗蓮寺)
乗蓮寺墓地に所在する空襲によって損傷したと言われている墓石で、田中家先祖代々の墓碑である。 墓石の右側が大きく抉られ、爆発のすさまじさを感じさせる。

A空襲で損傷した墓石(長楽寺)
こちらは、乗蓮寺に隣接する長楽寺に所在する平川家の墓碑である。 墓石の後部が大きく欠けている。 空襲被害という情報はないが、状況から空襲被害と推測する。

B御神木 大銀杏の一枝(神明神社)
空襲被害を受けた大銀杏で、以下説明板を転載する。
「旧祭地には江戸時代の絵図にも銀杏大木と記され東海道に聳え馬入の道標として旅人の目印となる大銀杏がありました  太平洋戦争中の平塚空襲で焼夷弾の直撃を受け洞の中まで黒焦げになりながらも翌年には見事に葉を茂らせ戦後の苦しい日々人々の心の支えとして親しまれてきました  戦後の経済成長は目覚ましく交通量の増大により国道一号線(旧一号線)の拡張工事により大銀杏は移植を検討されましたが古木且つ巨樹である事から断腸の思いで伐採される事になりました  馬入の道標人々の心の支えとして聳えていた大銀杏はその一枝を御神木として後世に伝えるべくここに安置しています  馬入氏子会」

<東京>

帝都東京には全106回もの空襲が行われたとされるが、10万人もの犠牲者を出した3月10日の東京大空襲が代表的である。
●東京大空襲(下町大空襲)

@富岡八幡宮合末社鳥居
説明板を転載
「昭和十二年に合末社の鳥居として建立されました。 残念ながら鳥居の上部が欠落していますが、これは昭和二十年三月十日の東京大空襲の被災によるものです。 この大空襲において富岡八幡宮は御本殿をはじめ大部分を焼失しますが、幸い七渡神社・合末社・永昌五社稲荷神社は焼失を免れました。しかし空襲における焼夷弾は、この付近にも落下し、その直撃を受けて鳥居上部が崩れ落ちました。 二度と起こってはならない戦争の痕跡を静かに伝えています。」

●山の手空襲

昭和20年5月25日に起こった山の手空襲は、470機ものB29が来襲、高性能焼夷弾3000トンを投下し、死者3,651名を出した。焼夷弾の量は死者10万人にを出した3月10日の下町大空襲の倍の量だという。この空襲で東京駅や皇居も被災した。 表参道交差点附近は多くの人が亡くなった場であり、街路樹の欅も焼けてしまった。この表参道の石灯篭の黒ずみや欠けている箇所は空襲の被害の傷跡なのである。
傍らには、空襲被害者の慰霊と平和を祈念する碑が建てられている。
所在:表参道交差点(港区)

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