大船観音(大船観音寺)

軍事遺物
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大船観音は、昭和2年「観音思想の普及を図り、世相浄化の一助とする。」を趣意に募金がはじめられ、昭和4年4月14日に起工した。
しかし、世界恐慌の影響で寄附が集まらず昭和9年に工事は中断され、そのまま放置されることとなった。
昭和14年には、工事中断を憂えた高科禅師により、「日本、支那両軍の英霊供養の祈念仏とす。」との願文も出されたが、再開はなかった。
戦後、朝鮮戦争特需による経済成長のなか、再建に向けての気運が生まれ、昭和29年11月2日、財団法人「大船観音協会」が発足。大戦での二百有余万の英霊の供養を含めた趣意書により募金を開始し、修仏が始まった。
像は昭和32年5月18日に起工し、昭和35年4月28日に落慶式が行われた。

大船観音は、33観音のひとつ白衣観音像であり、高さ25m、巾19m、奥行13mの大きな胸像のお姿である。東海道線車窓や大船駅から望めるその姿は有名。

胎内には、鎌倉市内の戦没者の英霊が祀られ、鎌倉遺族会による石碑が昭和43年10月9日建立された。碑面には、「鎌倉市戦歿者の英霊を観音胎内に祀る」とある。

境内には、この他、昭和45年4月建立の「原爆慰霊碑」、平成2年7月建立の「原爆の火の塔」、昭和60年8月建立の「平和祈念塔」がある。
*蛇足であるが、アルセーヌルパンと明智小五郎が対決する江戸川乱歩の名作「黄金仮面(昭和5年〜6年に発表)」のなかに、この観音像が登場する。

境内にある説明板には、「観音像の由来  昭和四年、当時の日本は第一次世界大戦後の不況や飢饉など、不安定社会情勢の中にありました。そこで、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようと、護国大船観音建立会を設立。 昭和九年には観音像の輪郭まで完成したのですが、日中戦争・太平洋戦争に突入し資金や資材不足となり、観音像は未完成のまま放置されました。  昭和三十二年に放置された観音像を完成させようと、曹洞宗管長高階瓏仙、吉田内閣国務大臣安藤正純東急会長五島慶太等を中心に財団法人大船観音協会が設立され、修仏工事が着工されました。 そして昭和三十五年、現在の観音像が完成されたのです(胎内にはこの修仏工事の写真が展示されております)。  その後、昭和五十六年、大船観音協会は宗教法人大船観音と改称し、曹洞宗大本山總持寺の末寺として現在に至っております。」とある。

胎内に安置されている木像