昭忠碑(鶴嶺神社) |
軍事遺物 |
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鶴嶺村出身の日露戦争における戦病没者14柱を合祀する忠魂碑として、明治39年12月に建立された。揮毫は元帥山縣有朋である。 その後、西南戦争と、日清・日露戦争の戦病没者5柱を加え、計19柱を合祀している。 同境内には大東亜戦争戦没者の慰霊碑も建立されている。 碑高291p、幅155p、厚さ27p、台石70p、基壇40p。 所在:鶴嶺神社(茅ヶ崎市) (刻字) 碑正面: 「昭忠碑 元帥侯爵山縣有朋書」 碑裏面: 「明治三十七八年之役我村人従軍奮戦激闘侵寒暑忍飢渇忘躯報國斃而後已者實十四人其忠勇義烈豈可不傳諸千載以維持世道鼓舞人心乎哉闔村胥謀為建貞a矚予記嗚呼生者誰無死碌碌而生昏昏□死者比此皆是而十四人則臨曠古大戰殉節社稷以貽偉績既祀於國祠可謂死而有餘榮矣因従殉節先役列叙如左 陸軍砲兵上等兵勲八等功七級青木源太郎君 三十七年八月二十三日死於清國盛京省南部王家屯享年二十三 海軍一等水兵勲八等 加藤福太郎君 三十七年九月十八日死於清國鳩湾外享年二十五 陸軍歩兵上等兵勲八等 小嶋銀蔵君 三十七年十一月二十七日死於清國盛京省旅順享年二十四 陸軍歩兵一等卒勲八等 宮川音吉君 三十七年十一月二十七日死於清國盛京省寺兒溝西方地享年二十三 陸軍歩兵軍曹勲七等功七級 内田徳十郎君 三十七年十二月五日死於清國盛京省旅順享年二十三 陸軍歩兵上等兵勲八等功七級松永春吉君 三十七年十二月五日死於清國盛京省金洲廰下二百三地享年二十六 陸軍砲兵上等兵勲八等 岩堀喜三郎君 三十八年三月六日死於清國盛京省大楡樹堡享年三十三 陸軍歩兵一等卒勲八等 青木已之助君 三十八年三月二十九日死於清國盛京省河司牛享年三十八 陸軍歩兵一等卒勲七等 石黒忠蔵君 三十八年五月二十日死於清國盛京省芹菜堡子享年三十六 陸軍歩兵一等卒勲八等 石井徳蔵君 三十八年十月二十九日死於清國盛京省後三家子舎營病院享年二十二 陸軍歩兵一等卒勲八等 内田時太郎君 三十八年十一月十四日死於清國盛京省大泉眼舎營病院享年二十三 陸軍砲兵上等兵勲八等 磯崎庄太郎君 三十八年十一月十七日死於清國盛京省遼陽兵站病院享年二十七 陸軍砲兵一等卒勲八等 三堀幸太郎君 三十九年一月二十一日死於東京豫備病院享年三十三 陸軍歩兵一等卒勲八等 鈴木佐太郎君 三十九年九月十三日死於東京豫備病院澁谷分院享年二十四 明治三十九年十二月 神奈川縣高座郡鶴嶺村長 出口直吉謹書 山宮藤吉謹書 陸軍歩兵一等卒加藤勝五郎君明治十年十月五日病死於西南之役凱旋途中 陸軍歩兵一等卒大森菊次郎君明治廿八年三月廿三日死於澎湖島 近衛歩兵一等卒小山喜三郎君明治廿八年四月廿四日死於金州大連灣病院 陸軍徒歩砲兵 鈴木榮蔵君明治三十八年三月六日死於奉天大楡樹堡砂山 陸軍歩兵一等卒新倉兵蔵君明治三十九一月凱旋途中得病不癒十一月八日死於東京衛戍病院 冨田壽石刻」 |