東京陸軍兵器補給廠田奈填薬所(田奈弾薬庫)

陸軍施設

<概要>
日中戦争の拡大に伴う弾薬量の増加によって、兵器補給廠にて行っていた弾薬の調製作業を分離することになり設置されたのが填薬所。板橋にあった東京陸軍兵器補給廠は、当時の横浜市港北区奈良町(現青葉区奈良町)に填薬所を設置した、他の兵器補給廠も同様で、例えば名古屋兵器補給廠の填薬所は高蔵寺(現航空自衛隊高蔵寺分屯基地で空自唯一の弾薬庫)に設けられた。
ここでは、いわゆる火工作業と完成弾の保管および供給を行っていた。 火工作業とは、造兵廠や民間工場で製造された火薬を弾丸に詰めて(填実)、信管を取り付けて完成させ、梱包・箱詰めを行うことである。
田奈填薬所には田奈部隊が駐屯し、終戦まで作業を行っていた。 最盛期には、応援部隊や動員学徒、徴用工など総員3,000名が働いていたと言われている。 そのため、周辺には徴用工のための宿舎(北寮、南寮)が設けられ、また保管しきれない弾薬は恩田地区に仮倉庫を作って格納していた(恩田倉庫)という。西側には陸軍兵器学校の分校があったとされる。場所柄火工術を教育していたものと思われる。
また、材料および完成弾丸の運搬用に軍用引込線が横浜線長津田駅から引かれていた。 更に、長津田駅周辺には、弾薬箱や防湿紙を製造する工場もあった。このように、田奈弾薬庫を中心に陸軍の弾薬製造に関わる様々な施設が田奈周辺に集積していたのであり、太平洋戦争末期には、爆発事故や自動車事故により作業員、動員学徒に死者が出ている。
戦後、進駐軍に接収され、米軍の弾薬庫として使用されていた(東京兵器補給廠田奈弾薬庫)が、返還後は皇太子殿下ご成婚記念事業として「こどもの国」が整備され、軍用引込線もこどもの国へのアクセス路線として再利用(東急こどもの国線)され現在に至っている。

<沿革>
・昭和13年頃  用地買収が始まる。
・昭和15年5月 東京陸軍兵器補給廠田奈分廠が定められる
・昭和16年    田奈部隊発足
・昭和17年10月 軍用引込線開通
・昭和20年10月 米軍に接収され弾薬庫として使用される。
・昭和35年   米軍弾薬庫が池子に移り事実上の閉鎖となる
・昭和36年   接収解除され、こどもの国建設工事開始
・昭和40年   こどもの国開園
・昭和42年   東急こどもの国線開通

昭和22年米軍撮影の空中写真を加工して作成 広大な敷地は血管のように細い谷戸が細かく入り込んだ地形で、防空状の見地から選定されたものである。
写真から東西2本の独立した主谷戸に枝谷戸が付属しているのがわかると思うが、この谷戸に沿って施設が設けられている。主谷戸の基部にそれぞれ停車場(東、西)がある。長津田駅からの引込線は途中奈良橋附近で分岐し、東西の停車場へ向かう。
横穴式の弾薬庫は主谷戸の奥の部分に設けられている。また、この2本の谷戸は北と南の2か所の隧道で連絡しており回遊できるようになっている。

→横穴式弾薬庫の詳細はこちら

令和1年国土地理院撮影の空中写真を加工して作成
現在の空中写真である。跡地はそのまま「こどもの国」に生まれ変わった。遺構については、もちろん当時の建物は何も残っていないが、横穴式弾薬庫や連絡隧道、また大戦末期に掘削された防空壕などが一部現存している。
西谷戸北側の横穴式弾薬庫の場所には白鳥型の池が造成され水没した。本部庁舎は今の多目的広場に建てられていた。東停車場は牧場口駐車場に、西停車場は中央広場に変貌しているが、ここにホームがあったことは想像できる。こどもの国駅は西停車場の手前に設けられた事がわかる。

<こどもの国 利用案内>
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現状と遺構

こどもの国正門

東急こどもの国駅

本部庁舎跡。現多目的広場

東停車場跡。現牧場口駐車場

西停車場跡。現中央広場

南隧道(46m)西口

北隧道(75m)南口

本部庁舎裏手の防空壕

本部庁舎正面の防空壕、レンガで閉塞

横穴式弾薬庫。出入口が2か所のコの字型

同内部

弾薬庫付属換気塔

はくちょうこ。幾つか弾薬庫が水没

掘削途中と推測される防空壕の一つ

無名戦士の記念碑。弾薬庫を利用している

平和の碑。動員女子学生の平和の祈り

転覆事故で亡くなった動員学徒の慰霊碑

周辺地下壕

敷地を囲む丘陵にいくつか地下壕が残されている。西側と南側に1カ所づつ確認できたが、いずれも2本の壕が内部でつながっているシンプルなコの字構造であり、空襲時の退避や物資格納用に造られたのであろう。

西側の壕。奥行10m程。

左壕開口部。幅3m、内部は狭く2m程

右壕内部から開口部を望む

南側の壕。ちょうど漢字の「円」の平面である。
奥行は20m程

内部の方が幅が広い

左壕。

陸軍兵器学校分校

兵器学校とは小石川にあった陸軍工科学校が昭和14年に淵野辺に移転、翌年に改称したもので、電工、機工、火工、鍛工、技工の技術士官を養成した。この分校は、弾薬庫に隣接していることから火工教育を行っていたものと推測される。 現在も当時の建物が、一部切り取られた姿で残り住居等で使われているが、老朽化が激しい。

米軍撮影の空中写真(昭和22年)

現在。赤い点線が旧状

新旧写真を比べるとわかるが、建物は3棟現存している。講堂と思われる大きな棟は右側が切り取られ更に二つに分割されている。左手の小型の縦長の棟は半分くらいに切り取られている。いずれも廃屋の佇まいであるが、居住者がいるようだ。

切り取られ分割された講堂。

渡り廊下も切り取られている

半分に切り取られた細い棟

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