横須賀海軍航空隊(横須賀海軍航空基地) |
海軍施設 |
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(歴史と概要) 大正5年4月1日に開隊した帝国海軍初の航空隊。当初は水上機部隊であった。横須賀鎮守府の防空のほか、航空隊要員の教育・練成、新型機の実用実験、各機種の戦技研究を担当したが、戦況の押し詰まった昭和19年2月からは、実戦配備にも付いた。 昭和19年頃から空襲対策として施設の地下化が始まり周囲の丘陵部には網の目のように地下壕が掘られ、弾薬、燃料、物資等が格納された。また丘陵上には対空陣地が構築され無数の対空機銃や高角砲が整備された。滑走路の周辺には多数の航空機掩体(有蓋、無蓋)も築造され、万全の態勢で終戦を迎えた。 終戦時の残存機は、記録によると「零式艦戦14機、紫電12機、天雷3機、月光3機、流星6機、彩雲7機、九九式艦爆1機、銀河11機、彗星11機、東海8機、九六式陸攻3機、一式陸攻9機、瑞雲1機、零式水艇3機、二式飛行艇1機、零式練戦1機、白菊3機、九三式陸中練3機、九〇式二号陸機練1機、零式輸送機1機、九七式艦攻3機、天山3機」の計108機である。 開隊から終戦までわずか30年であるが、終始海軍航空隊の中心的存在であり、航空技術廠と連携して海軍航空技術の発展にも大きく寄与してきた。また、海軍航空隊の初期の搭乗員は全て横須賀海軍航空隊から巣立っており、航空隊発展の素地となった歴史と伝統の航空隊である。 ・明治42年:陸軍と協同で臨時軍用気球研究会を設立。 ・明治45年6月:海軍航空術研究委員会を設立し、独自に航空機の研究を開始。 ・大正元年10月:追浜に海軍飛行場を設ける。面積は南北600m、東西200m、格納庫1棟、海岸に滑走台設置。 ・大正元年11月2日:河野大尉、カーチス式水上機を使って追浜飛行場で初飛行。 ・大正3年4月:海軍航空術研究委員会の事務所を田浦水雷団から追浜に移す。 ・大正5年4月1日:横須賀海軍航空隊開隊。海軍航空術研究委員会解散 ・大正7年:陸上飛行場の建設開始(埋立)。 ・大正15年3月:飛行場完成。 ・昭和5年:飛行予科練習制度(予科練)創設 ・昭和7年4月:海軍航空廠設立(昭和14年海軍航空技術廠に改称)。 ・昭和17年11月:追浜海軍航空隊開設(整備教育)。 ・昭和20年3月:田浦海軍航空隊開設(雷撃兵器整備教育)。 ・戦後:連合軍による接収後、転換工場として主に繊維工場が進出。 ・昭和23年:富士自動車が進出。占領軍の自動車の修理・再生事業を行う。 ・昭和27年:米軍に再接収され、米陸軍追浜兵器廠が設置 ・昭和34年:富士自動車、追浜兵器廠閉鎖。 ・昭和36年:日産自動車追浜工場操業開始 |
(現状と遺構) 跡地の大部分は日産自動車追浜工場となり、立ち入ることはできないし、残念ながら遺構もほとんど残っていない。残るのは太平洋戦争末期に構築された地下壕である。基地を囲む野島、夏島、貝山、鉈切山の丘陵には現在でも大規模な横穴式地下壕が現存している。特に航空機を格納するための超大型隧道式格納庫は圧巻である。また、歴史ある航空隊を象徴するかのように複数の関連石碑が建立されているのも特徴である。 |
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夏島と野島の間の海を埋め立てて造成し、1200mと800mの2本の滑走路を有していた。写真下部は航空技術廠の建物群。 | 令和3年撮影。周囲はかなり埋立られている。上部はGRANDRIVEと呼ぶテストコース、中央の大きな建物群が日産自動車の工場である。 |
![]() | 金沢山からの基地跡遠望。敷地の四隅に丘陵が存在したので、対空陣地や地下壕を作るのに好都合であった。
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